小説「真理の微笑 真理子編」

五十-2
 高瀬を迎えに会社に行き、家に戻ってくると、郵便受けにチラシがいっぱい入っていた。出かける前に郵便受けの物は、一度真理子が取り込んでおいただけに、いつの間にそんなにチラシが入れられたのだろうと、真理子は思った。
 真理子がチラシを郵便受けから取り出すと、高瀬が手を出したので渡した。
 真理子は車椅子を押して家の中に入っていた。
 リビングに上がると、「ねぇ、真理子。今年はこれしてもらおうよ」と高瀬がチラシを見せた。郵便受けに入っていたチラシはハウスクリーニングのものだったのだ。
「ハウスクリーニングなら毎年してもらってるじゃない」
「そうなのか」
「いやねぇ、そんなことも忘れているの」
 真理子は、高瀬のことを富岡だと思っているように思わせるために、そう言った。
「全部の部屋をやってもらっているの?」
「ううん、トイレとバスルームに洗面台、それとキッチンかな」
「だったら全部の部屋をやってもらおうよ」
「全部」
「うん」
「あなた、書斎、いじられるの嫌がってたじゃない」
「そんなこと、今は構わない」
「寝室も」
「ああ」
「何だか、恥ずかしいわ」
「エアコンとか窓とか、床掃除してもらうだけなんだから、恥ずかしいことなんかないじゃないか」
「だって……」
「ベッドが乱れるのは、夜だけだよ」
「意地悪ね」
「そんなことないさ」
「わかったわ。明日、会社にあなたを送りに行ったら電話してみる」
「そうだね、いくつか電話して見積もり出させて、良さそうなところに頼めばいいよ」
「いつものところじゃ駄目」
「いつものところってどこ」
 真理子はチラシの一つを出して、高瀬に見せ、「いつもここに頼んでいるの」と言った。
「だったら、そこに頼めば良いさ」
「そうするわ」
「今日の夕食は何」
「舌平目のムニエル」
「凄いね」
料理本とにらめっこしながら作るから、味はどうかな」
「真理子が作ってくれるものなら、何でも美味しいよ」
「嬉しいこと、言ってくれるのね」
「だってほんとのことだからさ」
「わたしね、今度、料理教室に通おうかと思っているの」
「そうなの」
「ええ」
「どうして」
「だんだんレパートリーがなくなってきたんだもの」
「そうなんだ」
「あなた、退院してきてから毎日、家で食事しているでしょ」
「ああ」
「前のあなたはそうじゃなかったのよ。どこかのクラブやバーに行っていて、帰って来るのも午前様が多かったんだから」
「ふ~ん」
「だから、わたし、毎日料理作る必要がなかったの。たまに早く帰ってきても、お茶漬けがあればいいって感じだったわね。いくら、わたしが作って待っていても関係なかったわね」
 真理子は腕によりをかけて料理を作って待っていた時の自分を思い出していた。
「でも、あなたは変わった。わたしの料理を食べてくれる」
「そりゃ、そうだろう。こんな躰だからクラブやバーになんか行けやしないし、第一、酒が禁じられている。家で、真理子の美味しい手料理を食べるのが一番だ」
 真理子は立ち上がって、高瀬に抱きついた。
「嬉しいことを言ってくれるのね。わたし、あなたにもっと美味しいものを食べさせたい」
 そう言うと真理子は高瀬にキスをした。