小説「真理の微笑 真理子編」

二十六
 金曜日の夕方、病院に行くと午後六時頃、主治医である中川医師の回診があった。数人の医師が後ろについてきていた。
「富岡さんの二度の手術は上手くいき、経過も順調です。腎臓が悪いのが気にかかりますが、治療を続けていけば良くなるでしょう。ただ、まだ意識が回復していないので、当分HCUで経過を観察していくことになります」と中川が言った。
 真理子が「意識の回復はどれくらいになるのでしょうか」と訊くと、「頭部スキャンをしても何処にも異常が見られませんから、こればかりは待つしかありません」と答えた。
「そうですか。よろしくお願いします」と真理子は、頭を下げ、前にしたように涙腺を刺激して、顔を上げた時には、涙を流す演技をした。中川はそんな真理子の肩をポンポンと軽く叩いて、「大丈夫ですよ。ご主人は強い運を持っていますから。ここに運ばれてきた時も、かなり危ない状態でしたが、それも脱したし、大きな手術も二回とも乗り切りましたから、きっと回復するでしょう」と言った。
 病室から中川医師達が出て行くと、真理子は涙をハンカチで拭きながら、「ほんとに強運よね」とベッドの富岡に向かって言った。

 土日は午前中と午後に病院に富岡を見舞いに行った他は、久しぶりに休んだという感じになった。
 溜まっていた洗濯物を洗濯して、家の掃除も久しぶりにした。そうしてみると、普通の主婦に戻った気分になった。こうした日々が続けば、なんと楽だろうと思った。しかし、月曜日からは、また社長業が始まる。ただ、当面の課題がないのが救いだった。

 月曜日には午前中に各部の部長を会議室に集めて、TS-Wordの販売に向けての各部の取組について話を聞いた。TS-Wordの販売は今回で三度目になるので、前回までのやり方が踏襲されるようだった。真理子には、わからないことも多かったので、各部の部長の判断に任せることにした。会議は二時間ほどで終わった。
 火曜日に会社に行くと、社長室の机の上には、八月発売のパソコン誌がずらりと並んでいた。滝川が置いておいたものだろう。
 お茶を持ってきた滝川が朝の挨拶をすると、「今月号はどこもTS-Wordの特集がトップ記事になっていますよ」と言った。
「そう」と真理子は言うと、一冊を広げた。確かに、目次の最初に「トミーワープロ(TS-WordVer.3)のすべて」という文字が大きく載っていた。
「このトミーワープロというのは、どういうこと」と真理子が訊くと、滝川は「さあ」と首をひねった。
「いいわ、ありがとう」と言うと、滝川は出ていった。
 真理子が椅子に座って、他の雑誌の目次に目を向けると、どこも最初に「TS-WordVer.3の新機能」とか「TS-WordVer.3の魅力」といった文字が並んでいた。TS-Wordが注目されていることは、これらを見てわかった。
 真理子は「トミーワープロ(TS-WordVer.3)のすべて」という記事が載った雑誌を手に取った。そして読んでみた。
 その記事を要約すると、『今回発売のTS-WordVer.3は、今までのバージョンとは全く異なる新しいワープロソフトであると言える。β版のモニターの間では、今回のバージョンのTS-Wordをトミーワープロと呼んで、従来のバージョンと区別している者さえいる。それほど進化したワープロソフトになっている。従って、私も今回のバージョンをトミーワープロと呼ぶことにする。従来のバージョンの機能強化はもちろんであるが、日本語入力システムであるFEPが著しく改善されている。連文節変換においても、従来のようなおかしなところで区切った変換ではなく、ストレスなく入力することができる。また新機能として付け加わった罫線機能を利用した表計算機能であるが、単体のスプレッドシートソフトに比べると、機能的に落ちるものの、一般的な関数は揃っているので、使いやすい。とにかく、トミーワープロは、これまでのワープロとは一線を画するものであると言っていい』となっている。いくら提灯記事とは言え、べた褒めである。
 他の雑誌の記事も読んでみたが、どれもTS-WordVer.3を賞賛した記事になっている。
 真理子は販売宣伝部の松嶋を呼んだ。
「これらの記事はうちでいくらか出して書かせたものなの」と訊いた。
「いいえ、そんなことはありません」
「じゃあ、どの記事を読んでも、気持ち悪いくらいべた褒めなのは何故なの」
「β版のモニターの評判が凄くいいんですよ。だから、製品がいいってことじゃないんですかね」
「そうなの」
「ええ、この「トミーワープロ(TS-WordVer.3)のすべて」という記事を書いたのは岩谷宏って言うんですけれど、彼なんかは辛口の評論家で有名なんです。その彼がこれだけ褒めた記事を書いたのは、私は読んだことがありません」
「そんなに辛口の評論家なの」
「ええ、業界きっての辛口です。業界で知らない人はいませんよ」
「その彼にして、この記事なのね」
「そうなんですよ。私も読んでみて驚いたくらいです」
「このトミーワープロって良い命名よね」
「そうなんですよね。TS-WordVer.3なんて言うより、はるかにわかりやすいですからね」
「この名前で、宣伝できないかしら」
「そうですね。法務部と相談して早速、使えるように手配します」
「よろしくね」
「わかりました」
 松嶋が出て行くと、今度は開発部部長の内山を呼んだ。
「今度のTS-WordVer.3、評判がいいじゃないの」と言った。
「ええ、今週に発売される雑誌を見て、どれも高評価なのには驚きました」
「記事を読んでみたんだけれど、以前のバージョンと比べると随分違うようね」
「ええ、そうなんです」
「前のバージョンと比べると別物と書いてあった記事もあったわよ」
「そうですね」
「どういうことなの。そんなに機能革新できるものなの」
 内山はハンカチを出して首筋の汗を拭いた。
「何かあるのね」
「いや、何かあるというか、今回のTS-WordVer.3は社長案件だったものですから」
「社長案件。それどういう意味」
「TS-WordVer.3の機能アップについては、社長が持ち込んだものなんです。よくはわからないんですが、TS-WordVer.3の作成を外部に発注していたんじゃないかと思うんです」
「そう思う理由は」
「すみません。詳しいことは清宮に訊いてください。彼ならわかるでしょう」
「そう。じゃあ、そうするわ。清宮君を呼んでくれない」
「わかりました」
 内山が出ていってしばらくして清宮が社長室に入ってきた。
 清宮が入ってくると、真理子は、机の上に並んでいる雑誌を指し示して、「TS-WordVer.3、なかなかいい評判ね」と言った。
「恐縮です」
「内山部長に訊いたんだけれど、今回のTS-WordVer.3は社長案件だと言うんだけれど、どういうことなのかしら」
「ああ、そのことですか。それはですね、このTS-WordVer.3の元となっているソフトが別にあって、それを社長が外部に委託して作らせていたんだと思うんですね。で、我々は、社長から手渡されたフロッピーディスクのプログラムをTS-Wordの仕様に合わせて作り替えて、今のTS-WordVer.3になったという訳です」
「以前のバージョンのTS-Wordと今回のTS-WordVer.3が違うのは、元になっているソフトが違っているからということなのね」
「いえ、完全に違っているわけではなくて、別のソフトのいいところを取り入れたと言った方が正確だと思います」
「この間の外字作成ソフトみたいに、誰か売り込みに来たっていうことなのかしら」
「それはわかりません。これだけ複雑なソフトになると、この間のような売り込みがあったとは思えませんが」
「そうなの」
「多分、外部委託されたんだと思いますが、詳しいことはわかりません」
「自社の主力商品であるものを外部委託するということはよくあることなの」
「いえ、今までにはなかったことです」
「じゃあ、今回が初めてだということ」
「ええ」と言った後で、清宮は少し考える様子を示した。
「もう一件ありました」
「何」
「カード型データベースソフトです。来春頃に発売を予定していたソフトなんですが、自社内での開発がなかなか進んでいなかったところ、社長がカード型データベースソフトのβ版を持ってきたんですよ」
「…………」
「これには驚きました。ほとんど完成されたものでしたから」
「それは今どうなっているの」
「これは完全に社長案件なので、そのままになっています」
「そう。わかったわ。それでTS-WordVer.3の話に戻るんだけれど、雑誌を読んでいたらトミーワープロって言われているらしいのよ。どう思う」
「TS-WordVer.3と言うよりも、呼びやすいですよね」
「わたしもそう思うの。いっそ変えようかしら」
「今からだと大変ですよ。商標とか、もう印刷した分もありますから」
「宣伝の時だけよ。使えれば売れると思うんだけれど」
「販売宣伝部と相談したらどうですか」
「もうしたわ」
「それは、余計なことを申し上げました。済みませんでした」
「いいのよ。それより、TS-WordVer.3は売れると思う」
「社長代理が、六千ロットを一万ロットまで引き上げたんですよ。売れるに決まってますよ。それに、どの雑誌を見ても評判はいいですからね」
「そうね。売れるわよね」
「そうですとも」