小説「真理の微笑 真理子編」

二十三
 高木が社長室から出ていこうとする時、真理子は明日の土曜日に会社に来られないことを思い出した。
「高木さん」と声をかけた真理子は、事情を話して「それで土曜日には会社に来られないので、お願いしますね」と言った。
「そういうことでしたら、わかりました。社長が事故に遭われた現場をよく見てきてください」
「そうするわ」
「では、失礼します」
 高木は出ていった。内線で滝川を呼び出し、同じことを伝えた。

 土曜日の午前九時、真理子は待ち合わせ場所で、自動車保険担当の東と会った。東は白のセダンで来ていた。名刺交換を済ませると、東が先を走るので、真理子はその後を付いていくことになった。今日は茅野の警察署に寄って、警察官に事故現場まで誘導してもらうことになっていると東は真理子に伝えた。真理子は了承した。
 茅野の警察署には午前十時半頃に着いた。そしてパトカーに先導してもらい事故現場に行った。
 警察署から事故現場まで四十分程度だったろうか。
「ここです」とすでに新しいガードレールが付けられていた事故現場を警察官は指し示した。真理子は、初めて見るように、ガードレールに近寄り、下を見下ろした。崖下は林になっていた。
「あの辺りの木に、ご主人は引っ掛かっていたんですわ」と警察官は、道路からそれほど下っていない辺りの林の木を指し示した。
「すぐに見つかって良かったですよ。そうでないと、翌日の捜査になっていたでしょう」と警察官は言った。
 警察官の真理子への説明が一通り終わると、保険調査員の東が警察官と話を始めた。事故の様子を聞いているようだった。あちこちを指差しながら、話をしていた。
 真理子は少し離れて、二人の様子を見ていた。不意に煙草を吸いたくなったが、我慢した。夫の事故に悲嘆している妻を演じなければならなかった。
 二人の話が終わると、「じゃあ、私はこれで」と言って、警察官はパトカーに乗って、坂道を下って行った。
 東が真理子に近づいてきて、「保険についてお話させてもらってもいいですか」と訊いてきたので、真理子は「この上に別荘があるので、そこでお話を聞かせてもらいます」と言った。
 今度は真理子が先になって、東を誘導する形で別荘に来た。事故現場から別荘まで三十分もかからなかった。
「近いんですね、それに凄い別荘」と東は言った。
 玄関の鍵を開けながら、「主人はよく来るんですが、わたしは一夏に一度来るか来ないかぐらいなんですよ」と言った。
 居間に入ると、蒸し暑かった。真理子はすぐにカーテンを開き、窓を開けた。
 そして、テーブルの前の椅子を東に勧めると、キッチンの冷蔵庫に向かった。
 サイダーの瓶が入っていたので、それを取り出し、食器棚からコップを二つ取ると、お盆に載せ、東の座るテーブルまで運んだ。
 サイダーを二つのコップに注ぐと、真理子は一つを東の前に置き、「喉が渇いたでしょう。どうぞ」と勧めた。
 東はサイダーを一口飲むと、「早速ですけれど」と言って保険の話を始めた。車は全壊しているので、重過失がなければ全額保険はおりると言った。
「先程、警察の人とも話をしたんですけれども、今のところ、車両保険は重過失なしということでおりる見込みです」と答えた。そして、いくつかの書類を出して、「こちらにサインをお願いできますか」と言った。
 真理子はそれらの書類にサインをして渡すと、「後は、ご自宅に郵送してある保険金振込先の書類に、振込先を指定してご郵送していただければ、来月早々にも保険金を振り込ませて頂きます」と言った。
「わかりました」
「今回の保険は車両保険の他に、生命保険もセットになったものですので、怪我の状態や手術の有無、入院期間、通院期間等をお知らせ頂くと、そちらの保険もおります。事故現場に立ち会われたのは、辛かったと思いますが、ありがとうございました。これでスムーズに保険金がおりますのでご理解ください」
「ええ、わかっています。ご心配なく」
「それでは私はもう一度、警察に立ち寄ってから帰りますが、奥様はどうなされますか」と訊くので、「ここの掃除をしたら帰ります」と答えた。
 玄関まで東を見送ると、コップを洗いながら二週間前のことを思い出した。
 再び、あの時感じた違和感が頭をもたげてきた。
 結婚指輪は本物だった。だから、あの包帯だらけの男は富岡に間違いなかった。しかし、その富岡が随分やせて見えたことも事実だった。ただ、薄い毛布を胸までかけていたから、良くはわからなかったが。
 真理子はコップを洗い終わると、拭いて食器棚にしまった。
 サイダーの瓶とキャップは、ショルダーバッグに入れた。持ち帰って捨てるためだった。そのショルダーバッグを肩にかけた時だった。レコードプレーヤーが目に入ってきたのだった。
 ショルダーバッグを置き、レコードプレーヤーに近づいた。透明な四角い蓋を開いた。
 レコードプレーヤーには、レコードが載ったままだった。
 電源を入れ、針を落としてみた。ワーグナーの曲だった。富岡はワーグナーが好きで、よく聴いていた。そして、レコードをかけ終えると、レコードプレーヤーからレコードを取り出し、大事にケースにしまうとレコード棚にしまうのだった。
 今まで富岡がレコードを聴き終えた後、レコードをしまわなかったところを見たことがなかった。それほど富岡はレコードに細心の注意を払っていた。
 その富岡がレコードをプレーヤーに載せたまま出かける、そんなことは考えにくかった。と言うよりも、あり得なかった。
 玄関のサンダルと運動靴の件、下駄箱の革靴の件、服の件……、と数え上げれば切りがないほど、今回の自動車事故はおかしな点が多かった。これらに、今回のレコードの件が加わったのだ。
 真理子は考えてみたが、わからなかった。
 別荘の玄関のドアの鍵を締めると、赤いポルシェに乗った。そして、富岡が下っていったように坂道を降りていった。

 真理子が家に戻ったのは午後五時過ぎだった。留守電にランプが点いていた。再生してみると、看護師からの伝言で、富岡の顔の形成手術が火曜日の二十五日に決まったということと、それに伴い担当の医師からの説明があるので、月曜日の午前中に病院に来て欲しいという内容だった。
 留守電を聞き終わると、途中で買物してきたものを冷蔵庫にしまった。
 蓼科の別荘までの日帰りの運転だったのでくたくただった。二週間前も同じことをしたのだ。だが、二週間前に比べると、遥かに疲れた感じがした。
 着替えもせずにベッドに倒れ込むと、起き上がれそうにもなかった。
 しばらく、そうしていた。
 やはり、レコードプレーヤーのことが気にかかった。
 何かがおかしかったのだが、その何かがわからなかった。
 真理子は起き上がると、服を脱ぎ、シャワーを浴びた。帰る途中で遅い昼食をとったので、お腹は空いていなかった。それよりも、早く眠りたかった。