小説「真理の微笑 真理子編」

二十一
 手術の翌日、午前九時に社長室に入ると、滝川がお茶を運んできて、「手術はどうでしたか」と訊いた。
「上手くいったわ」と答えた。
「それはよろしかったですね」
「心配してくださっていたのね」
「それは、もちろんです」
 真理子が「ありがとう」と答えると、滝川は部屋から出て行った。
 富岡の手帳を出してみた。アフターファイブに記されているイニシャルのSが気になった。今出ていった滝川の名前は、確か節子だったことを思い出した。節子ならイニシャルはSになる……。と考えてきて、真理子はまさかね、と思った。秘書にまで手を出すなんて……と思ったが、滝川のスタイルやルックスは正に富岡好みだった。

 今日は面会予定は入れていなかったから、真理子は手持ち無沙汰だった。
 一昨日、須藤によって持ち込まれたソフトはどうだろうと思って、清宮を内線で呼び出した。
 清宮はすぐにやってきた。
「おはようございます」
 真理子も挨拶をすると、清宮は「お話は『外字作成・活用ソフト』のことですよね」と切り出した。
「そうなの。で、どうなの」
「『外字作成・活用ソフト』はもうほぼ完成していて、ソフト自体完結した良いソフトだと思います」
「機能は……」
「まずは、フォントの作成、 編集機能。これは、一からドット単位でも作成できますが、スキャナで読み込んだ文字や絵もイメージ取り込みという機能で、フォントに自動変換してくれます。そしてフォントライブラリーというファイルに一時的に作成したフォントを保存しておき、好きなワープロソフト外字ファイルにフォントライブラリーからフォントの転送が行えます。また、異なるワープロソフトの外字ファイル間でもフォントが転送できます。そして、フォントライブラリーファイルはいくつも作れるのですが、すでに一つ作成されていて、それが『拡張JIS漢字フォント』と命名されているものなんです」
「それはどういうことなの」
「今、漢字はJIS第一次水準と第二次水準が規格化されて使われていますが、これでは足りないということで、パソコンやワードプロセッサーなどで使用できる漢字の拡張規格が検討されているところなんです。そこで制定されると思われている五千八百一文字のフォントがすでに作られてライブラリー化されているんですよ」
「それは画期的なことなの」
「今のJIS漢字フォントに飽き足りない人は多いですから、出せば売れると思います」
「それじゃあ……」
「待ってください。これからが、本番です。確かに需要はあると思うんですが、一般の人にとっての必要性からいえば、どうしてもというほどではないんです。いわゆる玄人受けするソフトなんです」
「そうなの」
「ええ。ですから、便利なソフトであることは確かなんですが、誰もが欲しくなるというソフトではないということです」
「では、どう考えたら良いの」
「まず、このソフトをどうするかということなんですが、買い取りにするか、マージンを支払うことにするかということですが、すでに完結していて、これ以上機能拡張は難しいタイプのソフトなんですね」
「バージョンアップは望めないということね」
「そういうことです。バージョンアップが必要になるソフトなら、マージン契約をして、相手にバージョンアップをやらせるということも考えられますが、このソフトの場合、その必要がほとんどないんです」
「わかったわ。そういうソフトの場合、どうすればいいの」
「買い取りにすればいいと思います」
「買い取り?」
「ええ」
「買い取り価格は、どうするの」
「購入されるであろうと思われる数字から判断していきます」
「つまり……」
「例えば、この手のソフトだと販売価格は高く見積もって一万四千八百円程度、低く見積もって九千八百円程度でしょうから、切りよく一万円と仮定しますね。販売手数料が約半分ほどは引かれるので、我が社の売上は一個につき五千円ということになります。ソフト自体の制作費を一応千円と考えると、四千円が利益になります」
「それでどの程度、売れると思っているの」
「一千本から三千本の間あたりだと思います」
「利益は、四百万円から一千二百万円ということなのね」
「そうなります」
「買い取り価格を仮に四百万円とすると、一千本しか売れなければ、全く利益が出ないということね」
「いえ、赤字です」
「どういうこと」
「今の計算の中には、経常費が含まれていません。このような会社を経営していくには、人件費はもちろんのこと家賃、水道光熱費などの経常費が必要になります。その分も売上から差し引かなければなりません」
「ということは一千本売るだけでは駄目っていうことなのね」
「そうなります」
「じゃあ、どう考えたらいいの」
「仮に一千本しか売れなかったとします。すると、利益は四百万円になります。我が社が売り出すのですから、我が社も相応の利益は必要です。これを二百万円と考えると、相手に支払う金額は二百万円ということになります」
「二百万円ですか……」
 真理子はしばらく考えた。しかし、うまく考えがまとまらなかった。そこで、清宮に訊いてみた。
「あなただったら、どうですか。このようにソフトを売り込みに来て、二百万円で買い取ると言われたら」
 清宮はすぐに「私なら馬鹿にするな、と思いますね」と言った。
「そう」
「ええ。これだけのソフトを作った期間とフォントの作成時間を思うと、かなりの時間を費やしていますよね。それと二百万円が見合うかと言えば、全く割に合いませんね」
「そうだとすると、あなただったらどうする」
「他に持って行きます。もっと高く買い取ってくれる会社をあたってみるでしょう」
「なるほど、そうよね」
「ええ」
「三百万円ならどう」
「どうでしょう。二百万円も三百万円も同じかも知れません」
「今、三百万円と言ったのは、売り出し価格を高い方の一万四千八百円にしてみたら、というのが前提なんだけれど」
「一万四千八百円ですか」
「清宮さんは、玄人受けするソフトだと言っていたわよね」
「ええ」
「だったら、一万四千八百円も九千八百円も変わりないんじゃないかしら」
「そうですが……。やっぱり一万円を切るのとそうでないのとでは、心理的に差があるように思いますけれど。私は販売部じゃないので、その点のところはよくわからないんですけれど、自分が買うとしたら五千円の差は大きく感じます」
「なるほど、わかりました」と言った後、しばらく考えて「それで、このソフト、我が社のラインナップに是非とも加えたいソフトかしら」と言った。
 そう言うと清宮はきっぱりと「是非とも、ということであれば、そういうソフトではありません」と答えた。
「爆発的に売れるといったタイプのソフトではなく、地味に売れていくソフトだと思うんですよね。ですから、どうしても欲しいかというとそうとは言えません」
「わかったわ。二百万円で打診してみます。駄目だったら、このお話はなかったことにします」
 真理子がそう言うと、清宮は驚いた顔をした。
「どうしたの」
「いや、社長代理の決断の速さにビックリしたものですから」
「そうかしら」
「富岡社長でも、私の話を聞くだけで、その場で決断することはしませんよ」
「それは、わたしが富岡修ではないからよ」と真理子は言った。
「どういうことでしょうか」
「一人で決断することが怖いのよ」
「でも、今、決断されたではないですか」
「清宮さんがいたからです。誰かがいれば、わたしの決断について、何か言うでしょう。一人だけの時に決断するのは、これでも怖いのよ」と真理子は言った。
 清宮は「そうは見えませんけれどね。むしろ、迷いたくないっていう感じを受けました」と言った。
「迷いたくない?」
「ええ、そうです。その場で決断してしまえば、迷う必要がなくなりますからね」
「なるほどね。そうなのかも知れないわね」
「そうですよ」
「ありがとう。これで一つ、問題が解決したわ」
 清宮は頭を下げて社長室から出ていった。
 時計を見ると十二時になろうとしていた。
 真理子は、午後になったら電話すればいいわ、と思って社長椅子から立ち上がった。