小説「真理の微笑」

四十三-2

「分かった。でもどうして今頃……」
 そう言うと、由香里はムッとしたような表情を見せた。
「それは堂々と会社に行けるものならそうしていたわ。会社に行く時はいつもあなたから連絡があった時だけ。そうでない時は、クラブかホテルで会っていたでしょ。というよりほとんどそうだった」
 手帳にYというイニシャルが付けられていたのは由香里の事だったのか、と私は思った。
「あなたから何の連絡も来なくなったので、この二ヶ月ほどは死ぬほど心配したのよ。何かあったんじゃないかと思って……」
「そうだったのか」
 夏美と同じだな、と思った。
「会社にも電話してみたけれど、受付はいつも『社長は今は外出中です』としか言わないし。何度電話したか、知れないわ。一体、いつまで外出しているのよ、と思ったくらい」
 受付の対応は間違ってはいない。会議中とか、取り込んでいるとか言えば、それでも由香里は取り次いでくれと言っていただろう。外出中なら取り次げないし、第一、入院しているのだから、外出中には違いなかった。
「電話じゃ、埒があかないから会社に行こうとしたわ」
「そうだろうね」
「でも、悪阻がひどくて、家から出られなかったの」
「なるほど、そういう事だったのか」
「ようやく、悪阻が治まったので、会社に行ってみたの。そしたら、引っ越していたのね。引越し先が書かれていたので、ようやく行けたの」
「そうか」
「随分と立派な会社になっちゃって……」
 私は前の会社を直に見に行ってはいないから知らないが、真理子が記念にカメラで撮った写真を見せてくれた。そして、新しい会社の写真も撮ってくれていた。両方を比較すれば、今の会社は随分と大きくなったと言えるだろう。
「どうしていいか分からないから、受付の人に一番偉い人に会わせてって言ったの。最初は断られたわ。でも、わたしは必死だった。そう簡単に引く事はできなかった。騒ぎが大きくなって、広報室の何とかという人が来たの。わたしがここで今一番偉い人に会わせて欲しいと言うと、どういう用件かと言うので、それをここで大声で言っていいのなら言うけれどと言ったら、『待ってください』と誰かに電話したわ。それがきっと高木さんだったのね」
「それで高木に会えたのか」
「ええ、そう。あの人、専務なのね」
「そうだ」
「いい人ね」
 私は頷いた。富岡にしては、いい人材を専務にしたと思っていた。
「その人に、全てを話したわ。そしたら、わかってくれた」
「そうか」
「あなたが事故に遭った事も、記憶を失っている事も。それから病院の場所も教えてくれたわ。わたしに会えば記憶を取り戻すかも知れない、とも言ってくれたわ」
「なるほどね。でも、残念だが、思い出せない」
 そう。思い出せるはずがないじゃないか、私は富岡じゃないんだから。
「こうすれば」
 由香里は私に近づき、いきなりキスをしてきた。私は、咄嗟に離そうとしたが、由香里の腕には力が入っていた。私は離すのをやめて、由香里を優しく抱き寄せ、口づけをした。
 すると由香里はすぐに唇を離すと、まじまじと私を見た。何か信じられない事が起こったような顔つきだった。
「どうした」
「修さんよね」
「そうだよ」
「変わったわ」と言った。
「えっ、変わった……」
 私はしまった、と思った。キスの仕方が富岡と違っていたのだろう。
「どう言ったらいいのかしら」と由香里は言った。
「変な話なんだけれどね、まるで全く知らない人とキスをしているみたいなの」
 そう言った後で、由香里は「ううん」、と自分の言葉を否定するかのように首を左右に振った後で、「気のせいね。でもキスがなんて言うか……」と口を濁した。
「私は前の事は覚えていないから、どんなキスをしていたかなんて分からないんだ」
 私が困ったような複雑な顔をしていたので、由香里は慌てて「良かったのよ。上手だったの」と言った。
「前のあなたはもっと雑と言うか、乱暴だったと思っただけ」
 私はどう言えばいいのか分からなかった。
「ごめんね。途中でやめちゃって」
 由香里はそう言うと、再び口づけをしてきた。髪からいい匂いが漂ってきた。私の知らない香りだった。今度は、長い口づけだった。ずっと探し求めてきた富岡に、やっと会えたのだ。その思いをぶつけるかのような激しい口づけだった。
「でも、こうして会えて良かったわ」
 私は頷くしかなかった。
「そのうち、きっと思い出すわよ。わたしが思い出させてあげる」
 それは無理なんだって、とは言えなかった。またしても、私は頷いた。
「だって、あんなにも赤ちゃんができた事、あなた喜んでくれたんだもの」
 それはどういう事、と心の中で思った。私の心の声が聞こえたみたいに「奥さん、赤ちゃんができにくい体質だものね」と言った。
 真理子との間で、子どもの話が出ないのは変だと思っていたが、そうなのか、そういう事だったのか、と得心した。
 しばらく由香里と話をした後で、「また来るわね」と由香里が言うと、私は慌てて「妻と鉢合わせになる事だけは避けてくれよ」と言った。
「わかっているわよ。わたしだって馬鹿じゃないんだから」
 由香里はお腹を大事そうにしながら病室を出て行った。出て行く時、私に向かってしきりに手を振った。

 由香里が病室を出て行った後、私はサイドテーブルの引出しから富岡の手帳を取り出した。午後五時以降に付いているイニシャルのYは由香里だ。その他にKとSというイニシャルもある。だが、何故かあけみのAはなかった。それにしても、一体、何人の女と付き合っているんだ。殺した富岡に向かって、そう叫びたくなった。そう思っているうちに、KとSは人名のイニシャルじゃないのかも知れないと思った。Kはクラブ「楓」のKかも知れなかった。とすれば、もう一つのSもどこかのクラブのイニシャルかも知れない。由香里は、元はクラブで働いていたかも知れないが、今はどこかで働いている風ではなかった。だから、由香里だけYのイニシャルだったのかも知れなかった。