小説「真理の微笑」

三十八
 夕食が済んで、しばらくしたら真理子がやってきた。
 大きな手提げ袋を両手に持っていた。今朝、渡したメモのソフトが入っているのだろう。
「大変だったんだから」という真理子に、「ありがとう、これで助かる」と言いながらキスをした。
「今日はどうだった」
「大変だったわ」
「そう」
「増産するのも大変だけれど、修正プログラムの方も作らなければならないから、工場ではフル回転しているようだけれど追いつかないみたい」
「結構な事じゃないか」
「それはそれで大変なのよ。それに会社の移転もするんだから」
「そうだな。それで、真理子、お前はどうしているんだ」
「あっちこっちの部署を回って、伝書鳩になっているわ」
「そうか。ちゃんとやっているんだ」
「何よ、その言い方」
「この前は、会社に居場所がないみたいな事言ってたじゃないか」
「それは変わらないわよ。わたし、ソフトの事、何にもわからないんだもの」
「別にソフトの事なんか分かる必要はないよ。決断ができればいいんだ」
「なんの事」
「トミーワープロの事だよ。俺がいなくなって、会社はどうしようか、迷っただろうね」
「…………」
「お前なんだろ、ゴーサイン出したの」
 真理子はまじまじと私を見た。
「誰かから聞いたの」
 私は高木から聞いたとは言わなかった。
「いいや、見ていればわかるよ」
「そう」
「ああ、お前には決断力がある。こうと決めたら、きっとやるタイプだ」
 そう言うと、また真理子は私の顔をまじまじと見た。
「なんか、俺の顔についているのか」
「いいえ、でも何か……」と言いながら、探るような目で私を見た。私に何らかの記憶が戻ったとでも思っているのだろうか。
「別に以前の事を思い出したわけじゃないからね」
「そんな事……」と言いながら、まだ私の顔を見ている。前とは感じが違っているのだろう。
「よくやってくれているなぁ、と思っているだけさ」
「…………」
「会社移転したら、次のソフトの事考えなくちゃならないだろ」
「そうね。もう、話は出ているけれどわたしにはついていけなくて……」
「次は、カード型データベースソフトだ」
「ああ、そんな事言ってた。だけど、あなたがこんなふうだからストップしているって」
「そうだね。カード型データベースソフトは俺のアイデアだからね。俺がいなければ進められないだろうね」
「それだったら、早く治して」
「それは医者に言ってくれよ」
「まぁ」と言いながら軽く私の肩を叩いた。
「ちょっと見せてくれ」
 私は真理子が持ってきた手提げ袋を示した。真理子はそれをベッドの上に置いた。
 私は中身を見た。「TS-CDB0.53-1」「TS-CDB0.53-2」というラベルが貼られたフロッピーディスクを取り出した。
「これだ」
「何、それ」
「さっき言っていたカード型データベースソフトの試作品」
「そうなの」
「ああ」
 そう言いながら、未完成のこれをどう完成させたらいいのか考えた。開発部のデータベースに詳しい者に指示するしかないと思った。
 社員名簿を見た。開発部の部長は内山貴之だった。
「内山に言って、データベースに詳しい者を病室に寄こしてくれ。午後はリハビリがあるから午前中がいい。会社に行ったら、すぐ来るように伝えて欲しい」
「急な話ね」
「こういう事は思いついた時にするのがいい。そのうち、引越しなどで忙しくなるから、紛れてしまうのが嫌なんだ。それに俺も忘れないうちに伝えたいし……」
「わかったわ」
 真理子が帰っていくと、私は早速、ラップトップパソコンをベッドのテーブルに置き、さっきのフロッピーディスクをドライブにセットした。
 基本的なところはほとんどできていた。いくつかできていないところもあったが、慣れたプログラマーなら完成させるのは難しくはないはずだった。
 それよりもメニューが(株)TKシステムズの時のままなのが気になった。トミーソフト株式会社に慣れた者がこれを使うとしたら途惑うだろう。それも含めて、ユーザーインターフェイスもトミーソフト株式会社のものに合わせなければならない。そして、最大の問題点であるユーザー登録画面については、入念に変更すべき箇所を書き込んだ。もちろん、どうしてそうするのか分からないように、注意深く指示を書いた。
 私はメモ帳に書き込んだ変更点を点検した。漏れはないはずだ、と思った。

 午後十時少し前に、あけみから電話があった。
「どうしたんだ」
「行く前に電話しろって言ったのは、あなたよ」
 店からかけているのだろう。後ろの方から賑やかな声が聞こえてきた。
「忙しいんじゃないのか」
「忙しいわよ」
「だったら……」
「忙しいのに、電話してるんでしょ」
「分かった」
「ねぇ、明日行っていい。ちゃんと奥さんがいない時に行くから」
 明日は、開発部の者が来る事になっている。明日は駄目だった。
「明日は人が来る事になっている」
 そう言うと「だったら、いつがいいの。会いたいんだもの」と言った。
「明日のこの時間に電話してくれ」
「わかったわ。我が儘は言わない、明日は我慢する」
 電話は切れた。それと同時ぐらいに看護師が入ってきた。
 夜の体温と血圧を測り、眠剤を飲むのを確認していった。