小説「真理の微笑」

二十五
 刑事の事は気になったが、気にかけても仕方なかった。
 しかし、すっかり忘れていた事だったが、茅野の駐車場に自分の車を止めていたというのは、あまり上手くはなかったと思った。もし、事故が起こらなくて、富岡が失踪したという事になったとしても、駐車場には監視カメラが付いているかも知れない。それでそこに私の車が止まっていた事が分かれば、警察は不審に思うだろう。しかし、茅野の駐車場に一時的に駐車している私の車までに警察が辿り着く可能性は非常に低いと考えたのだ。
 もちろん、どこかの山道から入り込んだ所に車を止めておく事も何度も検討した。しかし、土地勘のない私には、適当な場所は思いつかなかった。東京まで富岡の車を運び、適当な所で乗り捨ててから、茅野に戻り自分の車で帰って来るなら、分かりにくい山道に止めるのは、逆に危険に思えたのだった。
 しかし、それはもう考えない事にした。それにしても刑事が来た時の真理子の態度は、頼もしくさえ思えた。私は母親の陰に隠れる子どものようだった。

 夕食をとり、就寝前の体温と脈拍を測ったら、私はベッドに横たわった。
 考え忘れた事はないかを確認しているうちに、夏美と祐一の姿が思い浮かんできた。
 実家で撮られた、あの雑誌の写真が頭から離れなかった。
 夏美とは大学のサークルで知り合った。夏美は学年が一つ下だった。春、恒例の呼び込みの時に、私が友達と連れ立って歩いている彼女を呼び止めたのが、最初の出逢いだった。私の好みは夏美よりも、その隣にいた彼女の方だった。彼女はどちらかと言えば、真理子みたいなタイプだった。だが、私の話を熱心に聞いたのは夏美の方だった。
 私は政治・経済学部にいて、サークルは日本の未来を予測する事が中心だった。夏美は文学部だった。政治・経済とは無縁だった。そして、その友達もそうだった。
 だから、友達は私の話にすっかり興味を失っていたが、夏美はそうではなかった。
 当時の日本経済は高度成長期にあり、ドイツを抜いて世界第二位の経済大国になっていた。しかし、私はそんな経済モデルはやがて廃れるだろうと予想していた。経済が傾く前に、年金や医療保険などの制度設計をやり直す必要があると思っていた。そんな事を話していた。しかし、私の話は誰も聞いてはくれなかった、夏美を除いて。
「行こう」と言う友達に手を引かれて離れていく時に、夏美は「わたしもそう思うわ」と言った。
 夏美は後でサークルに入会した。サークルは女性会員が少なかったから、必然的に女性はちやほやされた。私はそんな会員たちとは少し距離を置いていた。当時私は、流行りだしていたパソコンに夢中だった。教室で授業を受けているより、秋葉原に通っている方が多いくらいだった。プログラミング言語も独学で習得した。
 夏美には、パソコンの話を夢中でした。そんな話にも夏美は付き合ってくれた。他のサークル仲間は、パソコンにはあまり興味がなかったのだ。
 夏美は美人ではなかったが、よく笑った。その笑顔がチャーミングだった。私はいつしか夏美を好きになっていた。
 大学を卒業したら就職をしないで、プログラミングの専門学校に通った。そこで、それまで独学で学んでいたプログラミングの技術に磨きをかけた。一年も経つと、専門学校の授業では物足りなくなっていた。
 専門学校を出ると、私は大手のソフト会社の子会社に入った。そこでは、ある専門学校から依頼された学生名簿のデータ入力ソフトをIBM製のパソコンで作った。その時にデータベースソフトや表計算ソフトのプログラムや構造を知った。
 これを個人でも使えるようにすれば、随分と便利になるだろうと思った。また、その会社では日報などをワードプロセッサーで入力していたので、ワープロにも慣れていった。
 家に帰れば、自作のパソコンを作っていた。それを使って、最初はゲームを作っていたが、次第にワープロソフトやデータベースソフトを作るようになっていった。
 数年もしないうちに、そのソフト会社で働いている事が馬鹿馬鹿しくなってきていた。自分でソフトを作りたくて仕方なくなっていたのだ。しかし、自分の限界も知っていた。プログラミングはともかくも、パソコンを自作できても本当のところ機械的な部分についてはよく分かっていなかった。そんな時だった、技術系が強い北村と出会ったのは。
 私たちはすぐに意気投合し、起業する事になった。そこに前の会社から私が引き抜いてきたシステムエンジニアの中島とプログラマーの岡崎が加わった。そして電話番として夏美が手伝ってくれた。雑用は全て彼女に任せた。その頃には、私たちは結婚こそしていなかったが、すでに同棲していた。
 ソフトを作りたいと思って設立した会社だったが、最初は昔働いていた会社の下請けのような仕事しかなかった。しかし、会社の経営基盤はそれで安定した。その時に、夏美と結婚をした。結婚式はしなかったが、結婚指輪だけは作って、二人で交換して嵌めた。
 それからだった、独自のソフトウェアを作り出すようになったのは。最初の二年ほどはゲームソフトを作っていた。しかし、他社のワープロソフトが出だして、そこそこの売上を上げているのを見て、我が社でも作ろうという事になった。ただのワープロソフトでは他社と差別化ができないから、表計算ソフトを組み込もうと私が提案すると、みんなが乗り気になった。
 難しい事は分かっていた。分かっていたからこそ、乗り気になったのだった。
 三年前の事だった。そして、三年の年月をかけて、念願のワープロソフトを作りあげたのだった。
 そのワープロソフトが富岡に奪われたのだった。