僕が、警察官ですか? 2

三十二
 犯行の後、自宅に戻ると、余りにも運動靴が汚れているのでビニール袋を持ってきてその中にハンカチとロープを一緒に入れた。それは他のゴミと一緒にゴミ出しの日に出すつもりだった。
 それから、着替えを持って風呂場に行った。ポロシャツを脱いで、パンツと一緒にスラックスを降ろすと、ペニスがビンビンに立っていた。
 躰を洗って立つと、鏡に立ったまま映っているペニスの向こうに子鹿幸子の顔が浮かんだ。ペニスをしごいた。一度射精した。しかし、ペニスは萎えなかった。手の平に子鹿幸子の首を絞めた感触が残っている。その手の平でペニスをしごいていると思うと堪らなかった。また、吹き上げた。それでもペニスは萎えなかった。

 取調室のドアがノックされた。外にいた警官が取調官に何か言った。そして、取調官が「どうぞ」と言うと、すぐに弁護士が入ってきた。
 取調官に名刺を渡し、「内藤と言います」と言った。
 取調官は、他の刑事が用意したパイプ椅子に「特別に今日だけですよ。では、どうぞ」と言って、弁護士を座らせた。事前の申し入れがなく弁護士を取調に同席させるのは、異例だった。むしろ、前例がなかった。
「では、事情聴取を再開します」と取調官が言った。すると、芦田は弁護士に耳元で何か言った。
「芦田さんは、すでに長時間の任意の事情聴取を受けています。本人の希望としては、自宅に帰りたいと言っています」と内藤弁護士は言った。
「自宅へは今はお帰り願えません。ご存じのように、現在、家宅捜索の最中ですから」と刑事は言った。
「それでは、ホテルに連れて行きます。もちろん、ホテル名はお伝えします」と弁護士は言った。
「それも今はできません。こちらの質問にお答え願えたら、すぐにお帰しします」と取調官は言った。
「黙秘権は被疑者の権利ですよ。黙秘権を理由に事情聴取を続けるということは納得できません」と弁護士は言った。
 取調官は「もちろん、黙秘権は被疑者の権利です。したがって、行使してもらっても構いません。しかし、黙秘権を行使したという事実は記録に残しておく必要があります。これから、質問することは昨日尋ねたことです。同じなら同じで構いませんし、黙秘権を行使したいのであれば、行使すればいいでしょう」と言った。
 芦田は弁護士に何か言った。
 弁護士は「芦田さんは、長時間の事情聴取を受けています。帰れないとしても、休憩を取りたいと言っています。これは当然のことだと思います」と言った。
 僕は時計を見た。午後二時を過ぎていた。すでに、四時間も事情聴取が行われていたのだ。
 取調官が「ではここで、三十分ほど休憩しましょう。午後二時半から再開ということでどうでしょう」と言った。
 弁護士は「それでは昼食もとれません。午後三時からではどうですか」と提案した。
 取調官は「いいでしょう。では、午後三時にこの取調室で事情聴取を再開します」と言った。
 弁護士は「近くに食事ができるところは、ご存じですか」と訊いた。
 取調官は「一時間で行って帰ってくるとなると、この庁舎内で食事をした方がいいですね。十階にラウンジがありますから、そこで食事ができます」と言った。
 弁護士は「では、そうします」と言った。

 僕はミラー室から出ると、捜査本部に置いてきた鞄を取りに行った。
 そして、鞄を持ってラウンジに上がった。
 同じエレベーターに芦田と内藤弁護士が乗っていた。同じく十階で降りた。刑事が二人ほど、芦田と内藤弁護士を見張っているようだった。万が一にも、被疑者に逃げられるようなことがあれば、重大なミスになるからだった。
 僕は鞄から愛妻弁当を出して食べた。実際のところ、余り食欲はなかったが、きくのハートマークはそんな僕に元気を与えてくれた。
 芦田を見ながら、これまでのことを考えていた。証拠となるげそ痕は、その元になる運動靴はすでにゴミとして捨てられている。ハンカチもロープも同じだった。
 残っているのは、その時に着ていたポロシャツとスラックスと、皮手袋だった。
 ポロシャツとスラックスはとっくに洗われているだろうから、証拠品にはならない。
 残るは皮手袋だった。映像を再生してみた。皮手袋に被害者が触れていればいいのだが、と思っていると、二つの絞殺事件とも被害者は首に巻かれた鈴蘭テープやロープを取ろうとする時に、皮手袋に触れていた。もし、皮手袋から被害者の指紋が検出されれば、直接証拠になる。
 だが、次の映像を見た時、その願いも虚しく消えた。
 芦田勇は三年前の秋に、秋田で行われたビジネスショーで***開発株式会社の専務からスカウトされたのだ。
 今いる会社よりも条件は良かった。最初は北府中市にある支社で働いてもらい、一年後に本社勤務に移動してもらうということだった。芦田勇には、異存はなかった。その申し出を受けた。
 問題は、現在、働いている会社を円満退社することだけだった。
 だが、それも心配はいらなかった。芦田が『一身上の都合で辞めさせて頂きます。よろしくお願いします。』と書いた辞表を上司に提出したら、あっさりと受理されたからだった。
 父や継母や義弟に、東京の会社に転職すると言った時、家族はホッとすると同時に喜んだ。
 そして、西秋田市から北府中市への引越しの時、芦田勇はこの皮手袋をゴミとして捨ててきたのだった。ただ、ロープは持って引越しをした。同じようなロープが簡単に手に入るとは思えなかったからだ。

 午後三時少し前になった。僕は鞄を持ち、階段を使って、八階の捜査本部に下り、鞄を椅子に置くと、もちろんひょうたんを持って、一階下の取調室の隣のミラー越しの部屋に入った。
 午後三時少し過ぎに、芦田勇と弁護士は取調室に入ってきた。
 取調官がマイクに向かって「**月**日、午後三時十分。取調を再開します」と言った。
「では、秋田から東京に移り住んだ経緯についてお尋ねします」と取調官が言った。
「黙秘します」と芦田は言った。
「でも、昨日は秋田から東京に移り住んだ経緯については話されていますよ」と取調官は言った。
 芦田が何も言わないので、「では、昨日話したことを読み上げます。黙秘するなら、黙秘すると言ってください。同意するなら、同意と言ってください。違っていたら、どこが違っているのか、言ってください」と言った。
 そして、さっき、僕が見た映像と同じようなことをしゃべった。それに対して、芦田はすべて「黙秘します」と答えた。