小説「真理の微笑 真理子編」

二十八

 八月六日の日曜までは、特に何も変わるところがなかった。富岡の手にされていた拘束は日曜の午前中には外されていた。

 月曜日の午後六時頃、病院に行くと、ナースステーションの看護師から、今週の水曜日に、今いるHCUから一般病室に移るという話があった。

 パンフレットを見せてもらった。一般病室と言っても、通常の病室から特別個室まであるという話だった。通常の病室と特別個室の大きな違いは、その広さと面会時間だった。特別個室の面会時間は比較的自由だった。社長や有名人のような人も多く入院しているこの病院では、入院していても面会に来る人も多いので、そのような人のための特別個室があるのだった。

 真理子は特に考えがあるわけではなかったが、看護師が「社長をされている方では特別個室を選ぶ方が多いですよ」と言ったので、ほとんど反射的に「では特別個室をお願いします」と言っていた。

「部屋番号が決まったら、後ほどお知らせしますね」と看護師は言った。

「用意する物がありますか」と真理子が訊くと、「いいえ、今のところ、特にありません」と言った後、「いえ、特別個室に移ったら、パジャマを毎日着替えるんですが、レンタルにされますか」と訊いた。

「レンタルですか」

「ええ」

 そう言うと看護師はパンフレットを取り出して見せた。

「下はズボンタイプなんですが、上は甚平みたいに、前開きの上着をお願いしているんです。パンフレットにあるように、ブルー系とピンク系の二色しかありません。後はサイズですね」

「レンタルされている方が多いんですか」

「特に好みがあるわけでなければ、レンタルされている方が多いです。毎日、洗濯しないで済みますから」

「そうですか」

「レンタルはフェイスタオルとバスタオルもあります。そちらはご自分で用意される方が多いですね。パンフレットを見て、必要な箇所に記入をして、特別個室が決まった時に出してもらえますか。特別個室に移った日からレンタルが開始されることになりますから」

「わかりました」

 

 特別個室はC棟の八階のある部屋に決まった。中に入ると、ちょっとしたホテルの部屋のようだった。HCUとは比べようもなく広かった。来客用のテーブルやソファのセットもあった。

 水曜日の午前中に、富岡がその部屋にストレッチャーに乗って連れて来られると、看護師が二人がかりでベッドに横たわらせた。

 それから、点滴をセットすると、看護師が出ていった。

 真理子は、包帯をされた顔をなぞるように手を触れた。この包帯の下の富岡はどんな顔をしているのだろう、と思った。

 しばらくして、真理子は病室を出た。

 

 金曜日に病室に行くと、看護師が丁度レンタルのパジャマを持ってきていたところだった。そして、そのまま出て行くのかと思ったら、「少しお待ちになっていてくださいね」と言った。秋月医師から話があるということだった。

 真理子が「わかりました」と言うと看護師は出て行った。

 真理子は、腕時計を見た。午前十時を過ぎていた。いつもなら、会社に行っている時間だった。特別個室に移ってから、真理子が朝、病室を訪れる時間も遅くなっていて、このところは午前九時を過ぎていた。

 しばらく待っていると秋月医師が入ってきた。

「お待たせしました」

「いいえ、とんでもありません」

「早速ですが、富岡さんの状態は良好です。もう顔の包帯も取っていい頃なので、来週の月曜日、十四日ですね。包帯を取ることにします」

「わかりました」

「午前十時頃を予定していますが、立ち会われますよね」

「もちろんです」

「では月曜日、午前十時ということで……」

「この病室に待っていればいいんですか」

「そうです。ここで包帯を取ります」

「わかりました」

「では、私はこれで」

 秋月医師が出ていった。

 真理子がこのところ、そうするように包帯の上から、富岡の顔を撫でて「ねぇ、あなた。来週の月曜日に包帯が取れるんですって。良かったわね」と言った。そして、少し笑った。その微かな笑い声は、聞きようによっては泣いているように聞こえたかもしれなかった。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

二十七

 翌朝、真理子は病院に寄った。いつものように富岡を見舞うためだった。

 ナースステーションに行き名前を言うと、「ちょっとお待ちください」と言われた。

 内線でどこかに連絡しているようだった。

 しばらくしたら、上森医師がやってきた。その顔には笑顔が浮かんでいた。

「どうぞ、病室にお入りください」

 真理子は手指の消毒をして病室に入った。後から上森医師も入ってきて、「富岡さん、意識を回復されましたよ」と言った。

「ほんとですか」

「ええ。今日、手の状態を見に来た時なんですが、富岡さん、僅かですけれど動かれたんですよね。それで声をかけてみたら、反応があったんです、見ていてください」

 上森医師は富岡の頭の近くに寄ると、「富岡さん、右手を上げてみてください」と言った。すると、富岡は右手を少しだけ上げた。

「もう一度、右手を上げてください」

 同じように右手を少しだけ浮かせた。

「ねっ、見ましたか」

「ええ、見ました」

「意識が回復されたんですよ。これで一安心です」

 真理子は近寄って、「真理子よ、わかる。ま・り・こ」と言った。

「そのうち、奥さんの名前も思い出すでしょう。今は、このくらいで……」と言った。

 真理子は立ち上がって、上森医師に頭を下げ、「ありがとうございました」と言った。

 上森医師は手を左右に振って、「私の力ではありません。富岡さんの気力がここまで持ち直してきたということなのでしょう」と言った。

 

 真理子はいったん家に戻ると、炭酸飲料水をコップに注いで飲んだ。

 富岡の意識が戻った、真理子の頭の中はそれでいっぱいだった。

 これで富岡が完全に回復すれば、元のままじゃないの、と真理子は思った。テーブルに両手をついて、顔を上げ、そのまま中空を見据えていた。

 

 翌朝も、病院の六階のナースステーションに行くと、「ちょっとお待ちくださいね」と言われて待たされた。しばらく待つと、昨日の朝も会った上森医師が何やら抱えて現れた。

「ちょっと、こちらに来てください」と案内されたのは、ナースステーション近くの小部屋だった。

 上森医師と真理子は机を挟むように座った。

「後で、病室に行けばわかると思いますが、今、上半身を拘束させてもらっています」

「…………」

「これは、意識が戻ったのはいいのですが、点滴の針を抜こうとする行為が何度となく繰り返し見られたからです。点滴の針が刺さっているのが、嫌だったんでしょうね。ベッドの柵も万一の場合に備えて、一時的に上げさせてもらっています。今は点滴の針が刺さっている右手を、そのベッドの柵に拘束させていただいています。当院にも拘束に対するガイドラインがあります。それは、概ね三点に集約できます。一つは、切迫性です。患者の行動制限を行わない場合に、その患者の生命または身体が危険にさらされる可能性が高い場合です。二番目は、非代替性です。その患者に対する行動制限以外に患者の安全を確保する方法がない場合がこれに当たります。最後は一時性です。患者に対する行動制限は、決して好ましいものではありません。従って、長期間、常態的に患者を拘束することは、当院ではしないことにしています。富岡さんの場合、意識がもう少しはっきりしてくれば、点滴の針を抜いたりする行為などはしなくなると思いますので、それまでの期間については、一時的に拘束を認めていただきたいのです。拘束に関しては、それを行った場合、速やかに患者本人、もしくは患者が同意できない状態にある場合においては、ご家族の承諾を必要とするという内規が当院にはあります。それで一時拘束に関するこの書類に目を通していただき、同意の旨のサインを頂きたいんです」

 真理子は「わかりました」と言うと上森から手渡された書類を読んだ。ほぼ、今上森が説明した内容が書かれていた。一番下にあるサイン欄に、富岡真理子とサインをして、上森に渡した。

 上森は軽く頭を下げると、「では病室に行きましょう」と言った。

 上森に続いて、真理子も富岡の病室に入った。昨日までは上げられていなかった柵が上がっていた。

 上森は、富岡が拘束されている箇所を指で指し示した。マスクをしていた真理子は頷いた。

「当面、こういう状態が続くと思うので、よろしくご理解のほど、お願いします」

「わかりました」

 上森が出ていくと、真理子は富岡に近づいた。

 意識が回復してくると、こういう事態も起きるのかと、真理子は思った。

 

 病院を出ると、真理子は会社に向かった。

 会社ではTS-Wordの発売に向けて、どの部署も忙しく動き回っていた。

 真理子だけが、社長室に入ると何もすることがなく、少し取り残されたような気分になった。

 社長が何もしないでも会社が自然に回っていく、これが本来の会社の姿かもしれないと真理子は思った。

 

 終業時刻になると、会社を出た真理子は富岡を見舞いに病院に向かった。ナースステーションに行くと、長野から刑事が見えているという話だった。

「ご家族の方、以外、面会謝絶中ですよ、と言ったら、ご家族の方はいつ頃、お見えになりますか、と言うので当病院での面会時間を教えて、午後はこの面会時間の間にお見えになります、と言ったら、そこらで待っていますよ、と言ってました」

 刑事が来ていると聞いて、真理子の心は穏やかではなかった。しかし、考えていてもしょうがなかったので、富岡の病室に向かったら、後ろから声をかけられた。

 振り向くと二人の刑事が立っていた。二人の刑事は「島崎です」、「高橋です」とそれぞれ警察手帳を出して名乗った。

 真理子は近くのソファに二人を誘って、そこで話を聞くことにした。

「一体、どういうことなんでしょう。事故のことなら、この前、事故現場まで警察官立ち会いの下で行きましたけれど」と真理子は言った。

「それは承知しています」と年長らしく見える島崎が言った。

「実は自動車事故の件で、富岡さんにお話が聞けたらと思って来てみたんです」

「富岡は、お話ができる状態ではありません」

「それは看護師さんに聞きました」

「昨日、ようやく意識が戻ったところなんです」

「そのようですね」

「で、どのような話なんですか」

「これは当人に聞かなければ、しょうがないんですが、ただの自動車事故じゃなかった可能性がありまして……」

「どういうことですか」

「詳しくは本人から聞くつもりです」

「まさか、自動車で自殺しようとしていたと言うんじゃないでしょうね」

「いえ、そういうことではありません」

「とにかく、本人は今話せる状態ではないんです。帰っていただけますか」

「わかりました」

「ちょっと、待ってください。わたしを待っていたようですけれど、わたしにも用があるんですか」

「いや、そういうわけじゃありません。ただ、さっき、自殺と言っていましたけれど、そのようなお心当たりでもあるんですか」

「ありません」

「それじゃあ、今日のところは帰らせていただきます」

 そう言うと二人の刑事は帰っていった。何のために、富岡に会いに来たのか、さっぱりわからなかった。そして、自分に会うつもりはなかったと言っていたが、真理子が富岡の見舞いに来るのを二人の刑事が待っていたふしがあった。それは、どういうことなのだろうか。ただ、茅野の警察署からわざわざ出向いてきたのだから、手ぶらで帰るのではしょうがないから、真理子の様子でも見ていこうとしたのだろうか。

 考えてもしょうがないから、真理子は富岡を見舞うことにした。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

二十六

 金曜日の夕方、病院に行くと午後六時頃、主治医である中川医師の回診があった。数人の医師が後ろについてきていた。

「富岡さんの二度の手術は上手くいき、経過も順調です。腎臓が悪いのが気にかかりますが、治療を続けていけば良くなるでしょう。ただ、まだ意識が回復していないので、当分HCUで経過を観察していくことになります」と中川が言った。

 真理子が「意識の回復はどれくらいになるのでしょうか」と訊くと、「頭部スキャンをしても何処にも異常が見られませんから、こればかりは待つしかありません」と答えた。

「そうですか。よろしくお願いします」と真理子は、頭を下げ、前にしたように涙腺を刺激して、顔を上げた時には、涙を流す演技をした。中川はそんな真理子の肩をポンポンと軽く叩いて、「大丈夫ですよ。ご主人は強い運を持っていますから。ここに運ばれてきた時も、かなり危ない状態でしたが、それも脱したし、大きな手術も二回とも乗り切りましたから、きっと回復するでしょう」と言った。

 病室から中川医師達が出て行くと、真理子は涙をハンカチで拭きながら、「ほんとに強運よね」とベッドの富岡に向かって言った。

 

 土日は午前中と午後に病院に富岡を見舞いに行った他は、久しぶりに休んだという感じになった。

 溜まっていた洗濯物を洗濯して、家の掃除も久しぶりにした。そうしてみると、普通の主婦に戻った気分になった。こうした日々が続けば、なんと楽だろうと思った。しかし、月曜日からは、また社長業が始まる。ただ、当面の課題がないのが救いだった。

 

 月曜日には午前中に各部の部長を会議室に集めて、TS-Wordの販売に向けての各部の取組について話を聞いた。TS-Wordの販売は今回で三度目になるので、前回までのやり方が踏襲されるようだった。真理子には、わからないことも多かったので、各部の部長の判断に任せることにした。会議は二時間ほどで終わった。

 火曜日に会社に行くと、社長室の机の上には、八月発売のパソコン誌がずらりと並んでいた。滝川が置いておいたものだろう。

 お茶を持ってきた滝川が朝の挨拶をすると、「今月号はどこもTS-Wordの特集がトップ記事になっていますよ」と言った。

「そう」と真理子は言うと、一冊を広げた。確かに、目次の最初に「トミーワープロ(TS-WordVer.3)のすべて」という文字が大きく載っていた。

「このトミーワープロというのは、どういうこと」と真理子が訊くと、滝川は「さあ」と首をひねった。

「いいわ、ありがとう」と言うと、滝川は出ていった。

 真理子が椅子に座って、他の雑誌の目次に目を向けると、どこも最初に「TS-WordVer.3の新機能」とか「TS-WordVer.3の魅力」といった文字が並んでいた。TS-Wordが注目されていることは、これらを見てわかった。

 真理子は「トミーワープロ(TS-WordVer.3)のすべて」という記事が載った雑誌を手に取った。そして読んでみた。

 その記事を要約すると、『今回発売のTS-WordVer.3は、今までのバージョンとは全く異なる新しいワープロソフトであると言える。β版のモニターの間では、今回のバージョンのTS-Wordをトミーワープロと呼んで、従来のバージョンと区別している者さえいる。それほど進化したワープロソフトになっている。従って、私も今回のバージョンをトミーワープロと呼ぶことにする。従来のバージョンの機能強化はもちろんであるが、日本語入力システムであるFEPが著しく改善されている。連文節変換においても、従来のようなおかしなところで区切った変換ではなく、ストレスなく入力することができる。また新機能として付け加わった罫線機能を利用した表計算機能であるが、単体のスプレッドシートソフトに比べると、機能的に落ちるものの、一般的な関数は揃っているので、使いやすい。とにかく、トミーワープロは、これまでのワープロとは一線を画するものであると言っていい』となっている。いくら提灯記事とは言え、べた褒めである。

 他の雑誌の記事も読んでみたが、どれもTS-WordVer.3を賞賛した記事になっている。

 真理子は販売宣伝部の松嶋を呼んだ。

「これらの記事はうちでいくらか出して書かせたものなの」と訊いた。

「いいえ、そんなことはありません」

「じゃあ、どの記事を読んでも、気持ち悪いくらいべた褒めなのは何故なの」

「β版のモニターの評判が凄くいいんですよ。だから、製品がいいってことじゃないんですかね」

「そうなの」

「ええ、この「トミーワープロ(TS-WordVer.3)のすべて」という記事を書いたのは岩谷宏って言うんですけれど、彼なんかは辛口の評論家で有名なんです。その彼がこれだけ褒めた記事を書いたのは、私は読んだことがありません」

「そんなに辛口の評論家なの」

「ええ、業界きっての辛口です。業界で知らない人はいませんよ」

「その彼にして、この記事なのね」

「そうなんですよ。私も読んでみて驚いたくらいです」

「このトミーワープロって良い命名よね」

「そうなんですよね。TS-WordVer.3なんて言うより、はるかにわかりやすいですからね」

「この名前で、宣伝できないかしら」

「そうですね。法務部と相談して早速、使えるように手配します」

「よろしくね」

「わかりました」

 松嶋が出て行くと、今度は開発部部長の内山を呼んだ。

「今度のTS-WordVer.3、評判がいいじゃないの」と言った。

「ええ、今週に発売される雑誌を見て、どれも高評価なのには驚きました」

「記事を読んでみたんだけれど、以前のバージョンと比べると随分違うようね」

「ええ、そうなんです」

「前のバージョンと比べると別物と書いてあった記事もあったわよ」

「そうですね」

「どういうことなの。そんなに機能革新できるものなの」

 内山はハンカチを出して首筋の汗を拭いた。

「何かあるのね」

「いや、何かあるというか、今回のTS-WordVer.3は社長案件だったものですから」

「社長案件。それどういう意味」

「TS-WordVer.3の機能アップについては、社長が持ち込んだものなんです。よくはわからないんですが、TS-WordVer.3の作成を外部に発注していたんじゃないかと思うんです」

「そう思う理由は」

「すみません。詳しいことは清宮に訊いてください。彼ならわかるでしょう」

「そう。じゃあ、そうするわ。清宮君を呼んでくれない」

「わかりました」

 内山が出ていってしばらくして清宮が社長室に入ってきた。

 清宮が入ってくると、真理子は、机の上に並んでいる雑誌を指し示して、「TS-WordVer.3、なかなかいい評判ね」と言った。

「恐縮です」

「内山部長に訊いたんだけれど、今回のTS-WordVer.3は社長案件だと言うんだけれど、どういうことなのかしら」

「ああ、そのことですか。それはですね、このTS-WordVer.3の元となっているソフトが別にあって、それを社長が外部に委託して作らせていたんだと思うんですね。で、我々は、社長から手渡されたフロッピーディスクのプログラムをTS-Wordの仕様に合わせて作り替えて、今のTS-WordVer.3になったという訳です」

「以前のバージョンのTS-Wordと今回のTS-WordVer.3が違うのは、元になっているソフトが違っているからということなのね」

「いえ、完全に違っているわけではなくて、別のソフトのいいところを取り入れたと言った方が正確だと思います」

「この間の外字作成ソフトみたいに、誰か売り込みに来たっていうことなのかしら」

「それはわかりません。これだけ複雑なソフトになると、この間のような売り込みがあったとは思えませんが」

「そうなの」

「多分、外部委託されたんだと思いますが、詳しいことはわかりません」

「自社の主力商品であるものを外部委託するということはよくあることなの」

「いえ、今までにはなかったことです」

「じゃあ、今回が初めてだということ」

「ええ」と言った後で、清宮は少し考える様子を示した。

「もう一件ありました」

「何」

「カード型データベースソフトです。来春頃に発売を予定していたソフトなんですが、自社内での開発がなかなか進んでいなかったところ、社長がカード型データベースソフトのβ版を持ってきたんですよ」

「…………」

「これには驚きました。ほとんど完成されたものでしたから」

「それは今どうなっているの」

「これは完全に社長案件なので、そのままになっています」

「そう。わかったわ。それでTS-WordVer.3の話に戻るんだけれど、雑誌を読んでいたらトミーワープロって言われているらしいのよ。どう思う」

「TS-WordVer.3と言うよりも、呼びやすいですよね」

「わたしもそう思うの。いっそ変えようかしら」

「今からだと大変ですよ。商標とか、もう印刷した分もありますから」

「宣伝の時だけよ。使えれば売れると思うんだけれど」

「販売宣伝部と相談したらどうですか」

「もうしたわ」

「それは、余計なことを申し上げました。済みませんでした」

「いいのよ。それより、TS-WordVer.3は売れると思う」

「社長代理が、六千ロットを一万ロットまで引き上げたんですよ。売れるに決まってますよ。それに、どの雑誌を見ても評判はいいですからね」

「そうね。売れるわよね」

「そうですとも」

 

小説「真理の微笑 真理子編」

二十五

 翌日、保険会社への手紙をポストに投函すると、病院に富岡を見舞ってから、会社に行った。

 社長室に入って、しばらくするとお茶を運んできた滝川が「社長の手術はどうでしたか」と訊くので、「無事終わったわ」と答えた。

「それはよろしかったですね」

「ありがとう」

 滝川が出て行くと、入れ替わるように高木が入ってきて、滝川と同じことを訊いた。

「成功したわ」と答えると、「それは良かったですね」と滝川と同じようなことを言った。

 真理子は「ありがとう」という代わりに「昨日は何かありませんでしたか」と訊いた。

「いいえ、特に変わりはありません」

「そうですか」

 その時、滝川から内線が入った。受話器を取ると「****信用金庫の中津さんが見えられていますが」と言った。

「面会予定がある人ですか」

「いいえ」

「ちょっと待ってくださいね」

 電話を保留にして、高木に今の話をした。

「それはきっと融資の話ですよ」

「うちは融資してもらう案件はないわよね」

「ありません」

「わかったわ」

 電話の保留を解除して「丁重に、お帰り願ってもらえないかしら」と言った。

「わかりました」と滝川が答え、内線は切れた。

「銀行や信用金庫からの融資話はよくあるんですよ。借りるのは構いませんが、返す当てがなければ、困るだけですからね」

「悪魔の囁きには、耳を貸さないのが一番ね」

「そういうことですね」

 そう言った後、高木は社長室から出て行った。

 

 その日は、何事もなく退社した後、病院に寄った。午後七時頃、秋月医師が病室に現れた。

「こちらにいらっしゃると聞いたものですから」と言い、「術後の経過はすごくいいです」と続けた。その顔は自信に満ちていた。

「ありがとうございます」と真理子が言うと、秋月は病室を出て行った。そのすぐ後に、若く見える医師が病室に入ってきた。

「富岡さんですか」と言うので、「はい、富岡真理子です」と答えた。すると医師は「私は腎臓内科の片桐と言います。よろしくお願いします」と言った。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「富岡さんは、片方の腎臓の損傷が激しく、今は保存療法を続けているところです。一時は、透析も考えたほど腎臓の機能が低下していたんですが、今は良くなってきています。まだ数値は悪いので、経過については注意して見ていかないといけないといったところです」

「そうですか」

「とにかく他の大きな手術は成功しているので、腎臓が良くなってもらうと安心できるんですがね」

「それほど悪いんですか」

「いえ、一時ほどではありません。ただ、今は注意が必要な状態であるということです。先程も申しましたとおり、少しずつですが、数値は良くなっていますから、このまま良くなるのを待つほかはありません」

「わかりました」

「では私はこれで」と言って、片桐は病室を出て行った。

 何人もの医師に会うので、真理子はその名前をすべて覚えていることはできなかった。今、出て行った医師も誰だったか、もう忘れていた。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

二十四

 日曜日らしい日曜日を過ごした真理子は、月曜日に病院に寄った。午前八時を少し過ぎた頃だった。

 秋月医師と湯川医師から話があるというのは、土曜日に聞いた留守電で知っていたので、二人が現れるのを待った。

 ナースステーション前のソファに座っていると、ほどなく二人がやってきた。

 真理子はいつも説明を受ける部屋に案内されて、ソファに座った。

「前にもお話したように早ければと言いましたが、二十五日、つまり明日ですが、顔及び歯の形成の手術を行うことになりました。時間は、午前十時に開始して、五、六時間かかります。よろしいですか」

「はい。結構です」

「では、こちらの書類にサインをお願いします」

 そう言うと秋月は真理子の前に数種類の書類を出した。そして、それぞれの内容を、秋月と湯川が説明し、それぞれの書類のサインする箇所を指し示した。真理子は言われる通りにサインした。

「それで手術の付き添いなんですが、奥様にお願いできますか」と秋月が言った。

「ええ、わたしが付き添います」

「わかりました。ではよろしくお願いします」と秋月と湯川の二人が同時に言った。

「こちらこそ、よろしくお願いします」と真理子は頭を下げた。

 病院を出たのは午前十一時頃だった。

 会社に着いたのは、午前十一時半頃だった。滝川に明日は休む旨を伝えた。

 そして高木を社長室に呼んだ。

「そういうわけで、明日も手術の付き添いをしなければならないんです」

「社長代理……、いや、真理子さんも大変ですよね」

「仕方ないわ。これも妻の務めですもの。それで明日は頼みますね」

「承知しました」

 高木が出ていくと、社長室の窓から向かいのビルを見た。中で仕事をしていた会社員が背伸びをするのを見た。

 時計を見ると、お昼だった。

 

 午後五時に会社を出ると、真理子は明日の手術に備えようとした。手術室の前で待っているのも、結構大変だったのだ。本屋に寄って文庫本を買おうとしたが、読んでも内容が頭に入ってくるような気がしなかったので、結局何も買わなかった。

 

 朝、起きたのは午前八時半過ぎだった。会社に遅刻してしまうと、飛び起きたが、今日は富岡の顔の形成手術だったのを思い出した。

 手術は午前十時からだと言っていたから、まだ十分に時間はあった。家から車で三十分もかからない所に病院はあった。

 いつものように朝のシャワーを浴びると、軽く朝食をとり、控えめな化粧をした。薄いグレーのスカートスーツを着ると、車に乗った。

 病院には、午前十時十分ほど前に着いた。総合案内で手術室の受付の場所を訊くと、B棟の方に向かった。四階の受付に行き、富岡の妻であることを告げると、4と書かれた手術室の前でお待ちください、と言われた。

 手術室は1番から4番まで並んでいた。

 4番の前のソファに座ると、手術中というランプはもう点灯していた。ショルダーバッグに入れてきたペットボトルの飲料水を飲んだ。

 時折、中から看護師が出て来たが、この前のことがあるので、真理子は手術のことを訊くことはしなかった。

 お昼になるとA棟の地下一階のコンビニに向かった。

 サラダとサンドイッチを買って、広場のテーブルで食べた。

 昼食をとった後で、手術室の前に戻った。

 午後三時過ぎに手術中というランプが消えた。しばらくしてストレッチャーに乗った富岡が出てきた。その後ろに秋月と湯川がいた。

 秋月は満面の笑顔で「手術は無事終わりました」と言った。湯川も頷いた。その顔には自信が満ち溢れていた。手術は成功したのだ。二人の様子から、それが伝わってきた。

「ありがとうございました」と二人に頭を下げると、真理子はストレッチャーの後を追った。エレベーター室の前で、看護師から「病室でお待ちください」と言われた。

 真理子はA棟の六階に上がると、ナースステーションの前に行き、看護師に富岡修の妻であることを告げた。すると、前回のように「まだ看護師が作業をしていますので、もう少しお待ちください」と言われた。

 富岡の病室で作業をしていた看護師が出てくるのを見たナースステーションの看護師が「もう入室されても結構です」と言った。

 真理子は、マスクを取り出してナースステーションの看護師に見えるように口にかけると、入口のアルコール消毒液で消毒をしてから、中に入っていった。

 富岡の顔は、真新しい包帯で包まれていた。しばらく、その富岡を見てから、真理子は病室から出た。

 ナースステーションの看護師に声をかけてから、エレベーター室に向かった。

 

 家には、午後五時前に戻った。

 何も食べる気が起きなかった。どこかで手術が失敗してくれることを望んでいた自分がいたことに気付いた。

 富岡はなんていう強運なんだろう、と真理子は思った。

 土曜日に行った事故現場を思い出していた。夜中のことだ。近くの木に引っ掛かっていなければ、翌日の捜索になると言っていた警察官の言葉を思い出した。そうであれば、富岡は助かってはいなかっただろう。そして、二度に及ぶ難しい手術も無事に乗り切った。これを強運と呼ばなくて何と言うのだろう、と真理子は思った。

 今日も付き添いながら、緊急事態になることを、心のどこかで望んでいた。しかし、それもなかった。あの二人の医師の満面の笑顔は、真理子の儚い希望を砕くものだった。

 それだけに家に戻れば、疲労感だけが残った。

 明日も会社に行かなければならないことが、苦痛にすら思えた。

 しかし、先に進まなければならないことは、真理子自身がよくわかっていた。

 自分自身を励ますように、服を脱ぐとシャワーを浴びるために浴室に向かった。

 浴室から出ると、保険会社に郵送する保険金の払込先の書類を取り出して記入し、判を押した。それを封筒に入れて封をすると、明日、病院に行く時にポストに投函しようと思った。

小説「真理の微笑 真理子編」

二十三

 高木が社長室から出ていこうとする時、真理子は明日の土曜日に会社に来られないことを思い出した。

「高木さん」と声をかけた真理子は、事情を話して「それで土曜日には会社に来られないので、お願いしますね」と言った。

「そういうことでしたら、わかりました。社長が事故に遭われた現場をよく見てきてください」

「そうするわ」

「では、失礼します」

 高木は出ていった。内線で滝川を呼び出し、同じことを伝えた。

 

 土曜日の午前九時、真理子は待ち合わせ場所で、自動車保険担当の東と会った。東は白のセダンで来ていた。名刺交換を済ませると、東が先を走るので、真理子はその後を付いていくことになった。今日は茅野の警察署に寄って、警察官に事故現場まで誘導してもらうことになっていると東は真理子に伝えた。真理子は了承した。

 茅野の警察署には午前十時半頃に着いた。そしてパトカーに先導してもらい事故現場に行った。

 警察署から事故現場まで四十分程度だったろうか。

「ここです」とすでに新しいガードレールが付けられていた事故現場を警察官は指し示した。真理子は、初めて見るように、ガードレールに近寄り、下を見下ろした。崖下は林になっていた。

「あの辺りの木に、ご主人は引っ掛かっていたんですわ」と警察官は、道路からそれほど下っていない辺りの林の木を指し示した。

「すぐに見つかって良かったですよ。そうでないと、翌日の捜査になっていたでしょう」と警察官は言った。

 警察官の真理子への説明が一通り終わると、保険調査員の東が警察官と話を始めた。事故の様子を聞いているようだった。あちこちを指差しながら、話をしていた。

 真理子は少し離れて、二人の様子を見ていた。不意に煙草を吸いたくなったが、我慢した。夫の事故に悲嘆している妻を演じなければならなかった。

 二人の話が終わると、「じゃあ、私はこれで」と言って、警察官はパトカーに乗って、坂道を下って行った。

 東が真理子に近づいてきて、「保険についてお話させてもらってもいいですか」と訊いてきたので、真理子は「この上に別荘があるので、そこでお話を聞かせてもらいます」と言った。

 今度は真理子が先になって、東を誘導する形で別荘に来た。事故現場から別荘まで三十分もかからなかった。

「近いんですね、それに凄い別荘」と東は言った。

 玄関の鍵を開けながら、「主人はよく来るんですが、わたしは一夏に一度来るか来ないかぐらいなんですよ」と言った。

 居間に入ると、蒸し暑かった。真理子はすぐにカーテンを開き、窓を開けた。

 そして、テーブルの前の椅子を東に勧めると、キッチンの冷蔵庫に向かった。

 サイダーの瓶が入っていたので、それを取り出し、食器棚からコップを二つ取ると、お盆に載せ、東の座るテーブルまで運んだ。

 サイダーを二つのコップに注ぐと、真理子は一つを東の前に置き、「喉が渇いたでしょう。どうぞ」と勧めた。

 東はサイダーを一口飲むと、「早速ですけれど」と言って保険の話を始めた。車は全壊しているので、重過失がなければ全額保険はおりると言った。

「先程、警察の人とも話をしたんですけれども、今のところ、車両保険は重過失なしということでおりる見込みです」と答えた。そして、いくつかの書類を出して、「こちらにサインをお願いできますか」と言った。

 真理子はそれらの書類にサインをして渡すと、「後は、ご自宅に郵送してある保険金振込先の書類に、振込先を指定してご郵送していただければ、来月早々にも保険金を振り込ませていただきます」と言った。

「わかりました」

「今回の保険は車両保険の他に、生命保険もセットになったものですので、怪我の状態や手術の有無、入院期間、通院期間等をお知らせいただくと、そちらの保険もおります。事故現場に立ち会われたのは、辛かったと思いますが、ありがとうございました。これでスムーズに保険金がおりますのでご理解ください」

「ええ、わかっています。ご心配なく」

「それでは私はもう一度、警察に立ち寄ってから帰りますが、奥様はどうなされますか」と訊くので、「ここの掃除をしたら帰ります」と答えた。

 玄関まで東を見送ると、コップを洗いながら二週間前のことを思い出した。

 再び、あの時感じた違和感が頭をもたげてきた。

 結婚指輪は本物だった。だから、あの包帯だらけの男は富岡に間違いなかった。しかし、その富岡が随分やせて見えたことも事実だった。ただ、薄い毛布を胸までかけていたから、よくはわからなかったが。

 真理子はコップを洗い終わると、拭いて食器棚にしまった。

 サイダーの瓶とキャップは、ショルダーバッグに入れた。持ち帰って捨てるためだった。そのショルダーバッグを肩にかけた時だった。レコードプレーヤーが目に入ってきたのだった。

 ショルダーバッグを置き、レコードプレーヤーに近づいた。透明な四角い蓋を開いた。

 レコードプレーヤーには、レコードが載ったままだった。

 電源を入れ、針を落としてみた。ワーグナーの曲だった。富岡はワーグナーが好きで、よく聴いていた。そして、レコードをかけ終えると、レコードプレーヤーからレコードを取り出し、大事にケースにしまうとレコード棚にしまうのだった。

 今まで富岡がレコードを聴き終えた後、レコードをしまわなかったところを見たことがなかった。それほど富岡はレコードに細心の注意を払っていた。

 その富岡がレコードをプレーヤーに載せたまま出かける、そんなことは考えにくかった。と言うよりも、あり得なかった。

 玄関のサンダルと運動靴の件、下駄箱の革靴の件、服の件……、と数え上げれば切りがないほど、今回の自動車事故はおかしな点が多かった。これらに、今回のレコードの件が加わったのだ。

 真理子は考えてみたが、わからなかった。

 別荘の玄関のドアの鍵を締めると、赤いポルシェに乗った。そして、富岡が下っていったように坂道を下りていった。

 

 真理子が家に戻ったのは午後五時過ぎだった。留守電にランプが点いていた。再生してみると、看護師からの伝言で、富岡の顔の形成手術が火曜日の二十五日に決まったということと、それに伴い担当の医師からの説明があるので、月曜日の午前中に病院に来て欲しいという内容だった。

 留守電を聞き終わると、途中で買物してきた物を冷蔵庫にしまった。

 蓼科の別荘までの日帰りの運転だったのでくたくただった。二週間前も同じことをしたのだ。だが、二週間前に比べると、遥かに疲れた感じがした。

 着替えもせずにベッドに倒れ込むと、起き上がれそうにもなかった。

 しばらく、そうしていた。

 やはり、レコードプレーヤーのことが気にかかった。

 何かがおかしかったのだが、その何かがわからなかった。

 真理子は起き上がると、服を脱ぎ、シャワーを浴びた。帰る途中で遅い昼食をとったので、お腹は空いていなかった。それよりも、早く眠りたかった。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

二十二

 真理子は、午後一時になると、須藤の所に電話した。

 真理子の提示した二百万円という数字は、当然予想していたよりもかなり低かったのだろう。しばらく沈黙が続いた。その沈黙の中には、怒りもあっただろう。

 やがて須藤が「条件があるが聞いてもらえますか」と言った。

「ええ、おっしゃってください」

「即金で二百万円、頂けますか」

「構いません」

「明日でもいいですか」と言うので、真理子は「ちょっとお待ちください」と言って電話を保留にし、内線で高木を呼んだ。

「明日なんだけれど、現金で二百万円用意できますか」と訊いた。

 高木はすぐに「大丈夫です」と答えた。

 須藤にしていた電話の保留を解いて、「結構です」と言った。すると須藤は、「午前中でも構いませんか」と言うので「構いません」と答えた。

「では午前十時に伺います」と言った。

 真理子は「契約を交わしますので、印鑑をお持ちになってください。それとこの間、お預かりしたソフトなんですが、あれは正規版ですか」と訊いた。

「正規版です。β版ではありません」

「そうですか。ではお待ちしています」

「こちらこそ。それでは失礼します」と言って、電話は切れた。

 真理子は清宮を呼んだ。一つ、不安が生じたからだった。

 清宮が社長室に入ってくると、真理子は電話の経緯を話した。

「ということは、相手はかなりお金に困っている状態なんですね」と言った。

「そうなの。そう思ったので、正規版なのかどうか訊いたんだけれど正規版だと言うの。早速で申し訳ないんだけれど、正規版なのかどうか確認してもらえますか」

「見たところ正規版のように思いますが、念のために確認します」

「よろしくお願いします」

 

 清宮が出ていくと、真理子は高木を社長室に呼んだ。

 さっきのお金がどういう種類のものなのかを話した。

「ソフトの売り込みはよくありますよ。でも、採用するソフトは年に一本あるかどうかですね」

「ということは、わたしはその一本を採用した訳ね」

「そうなりますね。相手は、かなりお金に困っていたんじゃないかと思います」

「そう思ったわ」

「有限会社でしたよね。借入金が増えて、もう借りられないところに来ているんじゃないですかね」

「倒産しそうなのかしら」

「どうでしょう。それはわかりませんが、まとまった現金が必要なのでしょう。それで売れそうなソフトを売っているっていうことなんじゃないですかね」

「そんなソフトを買っても大丈夫かしら」

「私は何とも言えません。でも買い取るという契約でしたら、買った後の権利はこちらのものになるのですから、仮に相手が倒産しても、ソフトの販売には影響しません」

「そう。それを聞いて安心したわ。それで、この契約はソフトの権利を買い取るという契約になる訳よね」

「そうです」

「その契約書、すぐ作ってくださる」

「わかりました。ひな形があるので、作成するのは簡単です。すぐ作らせます。契約関係は法務部という部署があるので、そこに作らせます」

「そう、じゃあ、お願いします」

「わかりました」

 

 高木が出ていった後、時計を見ると、午後三時を過ぎていた。午後の面会時間になっていた。昨日、手術をしたのだから、早く様子を見に行くに越したことはなかった。

 滝川に病院に行くことを告げて、退社した。

 六階のHCUのナースステーションに行き、様子を聞いた。特に変わりはないということだった。

 マスクをし、入口で手指の消毒をして室内に入った。

 相変わらず、包帯だらけの富岡がベッドに横たわっているだけだった。

 椅子に座って目をつぶると眠ってしまいそうだった。

 明日、須藤に二百万円を渡すことになるが、二百万円という金額の多さが真理子には、実感できなくなってきていた。僅か、二百万円と思えるのだった。

 手帳を開いた。自動車事故保険会社への連絡のところに印が付いていた。忙しさに忘れていたのだった。急いで病室を出ると、電話があるA棟に向かった。

 手帳に記入していた保険会社に電話して、担当者につないでもらった。

「お電話いただき、ありがとうございます。今回、担当させていただく、東と申します。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「そこで、急なことで申し訳ありませんが、明後日の土曜日なんですが、ご都合はどうでしょうか」

「土曜日ですか。今のところ用事はありませんが」

「それでしたら、土曜日に事故現場まで、ご一緒いただけますでしょうか。もし、ご都合が悪ければ、別の日に致しますが」

「大丈夫です。土曜日ですね」

「お車で来られますか」

「ええ、そうします」

「それでは待ち合わせ場所なんですが……」と、東はとある場所を指定した。車で行きやすく、高速にも乗りやすい場所だった。

「わかりました。そこに伺います」

「お時間ですが、午前九時から十時ぐらいの間でどうでしょうか」

「それでしたら、午前九時ということにしていただけますか。わたしは赤いポルシェで行きますので、わかると思います」

「承知しました。それでは午前九時にお待ちしています」

 電話を終えると、再び、真理子は富岡の病室に戻った。手帳の土曜日の欄に、午前九時、自動車保険、東、そして待ち合わせ場所を書き込んだ。

 

 次の日、午前十時に須藤が現れた。須藤に一人で会うのではなかったので、応接室に案内して、高木と法務部の林田が同席した。

 お茶が運ばれてきて、滝川が出て行くと、真理子が「早速ですが、御社の『外字作成・活用ソフト』を著作権も含めて、買い取らせていただく契約をさせていただきます」と言った。

「わかりました」

「これが契約書です。よくお読みになった上で、鉛筆で丸をしてある箇所にサインと印鑑を押してください」と真理子は言った。

 須藤は印紙の貼られた契約書に一通り目を通すと、言われたとおりにサインと印鑑を押した。契約書は二通あった。二通の契約書が同じ物であることを示す割印を押すと、真理子は一通を須藤に渡し、もう一通を法務部の林田に渡した。そして、二百万円の現金の入った封筒を須藤に渡した。

「二百万円、確かにあるかお確かめください」

 真理子がそういうと、須藤は封筒の中身を確認した。

「確かに二百万円受け取りました」

 須藤がそう言うと、高木が「この領収書にサインと印鑑を押してください」と言った。

 印紙が貼られた二百万円の領収書に須藤がサインをし印鑑を押すと、それを高木が受け取った。

「これで契約成立ですね」と真理子が言うと、須藤は頷き、現金の入った封筒を手提げ鞄に入れると、「じゃあ、私はこれで失礼します」と言ったので、真理子は滝川を呼んで玄関まで見送りさせた。

 須藤が出ていくと高木は大きく溜息をついた。林田は「失礼します」と言って、応接室から出ていった。

「社長室に行きましょう」と真理子が言って、高木を誘った。

 社長室に入り、真理子が椅子に座ると、高木も椅子に座った。

「社長代理は……」と高木が言いかけたので、「もう真理子でいいわ」と言った。

「失礼しました。ではそう呼ばせて頂きます。真理子さんは、契約に立ち会われたことがおありなんですか」と訊いた。

「いいえ、今日が初めてよ」

「それにしては堂々としていましたよね」

「変だった」

「いえいえ、感心していたんですよ」

「ただの契約ですもの。儀式みたいなもの」

「私は何度、契約に立ち会っても緊張します」

「そういうもんなんですか」

「金額の多寡にかかわらず契約とはそういうものです、私にとっては」

「そういうものなのね。わたし、多分、契約の大事さがわかっていないんだと思うわ。だから、平気でいられるんだと思う」

「そうじゃないと、思いますよ。腹が据わっているからだと、私は思います」

「わたし、太ってきたのかしら」

「ご冗談を……」

「わかっているわよ。今日は、ありがとうございました」と真理子は頭を下げた。

「止してください。私はただ立ち会っていただけですから」

「高木専務に立ち会っていただけると、何故か安心できるの。ほんとよ」と真理子は言った。

 高木はまんざらでもないように「そうですか」と応えた。