小説「真理の微笑」

三十三

 朝食は半分残した。

 食事が済むと薬を飲んだ。看護師が膳を片付けながら、薬を飲んだか確認した。

 看護師がいなくなると電話機を見た。夏美に電話がしたかった。ただ、声が聞きたかった。しかし、何を話していいのか分からなかった。

 夏美は、また「会いたい」と言うだろう。でも私には、夏美に会う事ができなかった。

 真理子が持ってきた社員名簿を取り出した。専務の高木のところを見た。住所と電話番号が載っていた。日曜日だという事は分かっていたが、会社の事を、真理子からではなく、彼から聞きたかった。専務にしているくらいだから、富岡は高木を信頼していたのだろう。そう信じた。電話機を取った。高木のところに電話した。

 高木ではなく、彼の奥さんが出た。

「富岡です」と少し掠れたような声で言った。

「誰ですか」

 当然、不審がって訊いた。

 もう一度、「富岡です、トミーソフトの」と言った。

「いたずら電話ならやめてください」

「切らないでください。こんなふうにしか、話せないんです。ご主人をお願いします。富岡です。と・み・お・か」

 保留音がした。しばらくして「高木です」と太い男の声がした。

「富岡です」

 私はやはり掠れた声で言った。

「誰ですって」

「と・み・お・か」

 私は精一杯の声を出した。

「社長ですか」

「そうだ」

「すみませんでした。家内の奴、てっきりいたずら電話だと思ってしまって……」

「そうだろうね。こんなふうに話すのだから、誰だってそう思う」

「…………」

「喉を痛めている事は知っているよね」

「はい」

「だから、こんな声でしか話せないんだ」

「わかりました」

「今日は、日曜だというのに済まないんだが、ここに来てくれないかな」

「今からですか」

「できればそうしてもらいたい」

「ちょっと待ってくださいね」

 また保留音が流れた。高木は今日、何か家族と約束があったのだろう。それを私は取りやめて、病院に来てくれと言っているのだ。今、家族を説得しているのだろう。

 少しく時間が経った。

「お待たせしました。わかりました。伺います。何か必要な物はありますか」

 そう言われて「ソフトとフロッピーディスクが入れられる少し大きめの封筒と便せん、それにメモ用紙を買ってきて欲しい」と言った。

「わかりました」

「じゃあ、待っている」

 受話器を置いた。

 午前九時を少し過ぎていた。高木の住所からなら、車で三十分もあれば来られるだろう。

 今日は、高木と二人きりで話がしたかった。忌憚のない高木の話が聞きたかったのだ。

 今度は真理子に電話した。

「はい、富岡です」

 真理子が出た。

「俺だ」

 私は掠れた声で言った。

「あなたなの」

「そうだ」

「で、どうしたの」

「真理子がどうしているかと思って……」

「馬鹿ね、今日は家の改修工事の見積もりが来るって言ったでしょう。だから待っているのよ」

「そうだったね。何時頃の約束なんだ」

「午前十時よ。あと一時間ほどで来るわ」

「そうか。日曜日もゆっくりできないんだね」

「そんな事ないわ。ただの見積もりだもの。あなたは、あなたはどうしているの」

「こうしてお前と話している」

 真理子が笑った。

「来て欲しいんでしょう」

 その声には媚びがあった。昨日のキスが頭を過ったのかも知れない。

「いや、いいんだ」

「見積もりが済んだら行くわよ」

 高木が来るので、真理子が家にいるのか確認したかっただけだったが、やぶ蛇のようだった。それなら、時間を指定した方がましだった。

「だったら午後三時頃、来てくれないか。冷たいアイスクリームが食べたい」

 私は思いつく有名なアイスクリームの品名を口にした。

「あら、あなたアイスクリームの名前、思い出したの」

「いや、雑誌に載ってたから食べてみたいと思って」と言いつつ、内心ドキッとした。

「わかったわ。買っていく」

「それから、財布も持ってきてくれないか」

「買物するなら、わたしがするけど」

「真理子がいないときに看護師に買ってきてもらうのに必要じゃないか」

「いいわ。持って行く。午後三時ね」

「うん、三時だ」

 アイスクリームは口実だった、午後三時まで真理子を来させないようにするための。高木と真理子を会わせるわけにはいかなかったのだ。

 

 午前十時前に高木は来た。

「すまなかったね」

 私はつい、掠れた声で言ってしまった。病室に入ってきたばかりの高木には、掠れた声は届かなかったようだ。

「すまない」

 私は掠れた声で何とか言った。上手く聞き取れなかったようだが、言っている事は理解できたようだ。

「とんでもありません」

 私は躰を起こして、高木を手招きした。

「聞こえる所まで来てくれ」と言った。

 高木は私の頭の近くに椅子を運んで座った。

「ここなら聞き取れます。これ頼まれた物です」

 高木は頼まれた物をレジ袋に入れたままサイドテーブルに置いた。

「面倒をかけたね、ありがとう」

「はい」

「会社の引越しはどうなっている」

「再来週の土日に一気に新しい所に引っ越します」

「そうか」

「全部、業者に任せられると楽なんですが、パソコンやサーバーなどの精密機械だとなかなか全て業者任せというわけにもいきませんからね」

「そうだな」

「再来週は社員総出で引越しです。その前日と引越しの翌日の月曜日は臨時休業にします」

「分かった。やりやすいようにやってくれ」

「今回の『TS-Word』、凄いですよ。初回六千ロット用意していたんですが、瞬く間に売れて、追加の四千ロットでも足りなくて、今二万ロット随時出荷中です。この分ですと五万ロット行くかもしれません」

「そうか。それで『TS-Word』という名称なんだが、いっその事、次回からトミーワープロに変えたらどうだ」

「そうですね、それはいいですね。今『TS-Word』って言っても、何? っていう感じですものね。雑誌でもトミーワープロとして取り上げられてますしね」

「うん。それからバグの対策はどうなった」

「ユーザー登録している人には、修正フロッピーを送っています。そして来月発売の雑誌から、フロッピーディスクを付録に付けているところでは、修正プログラムを載せてもらっています。そうでないところには、ユーザー登録を呼びかけるとともに修正プログラムの送り先を申し出るように告示しています。もちろん、新しく出荷している分は修正済みのプログラムです」

「そうか」

「でも、今回のバグは相当なヘビーユーザーでないと出ないと思いますけれどね」

「文章を書く専門家のために作っているんだ。みんな、ヘビーユーザーだと思わないといけないよ」

「そうですね、大変失礼しました」

 高木は軽く頭を下げた。

「私が事故前の記憶を失っている事は知っているよね」

「ええ、奥様から聞きましたから。でも本当に何もわからないんですか。バグを解決した事なんかからするとそうとは思えませんが。と言うより、あのバグの解決策を見つけた事の方が驚きます。なにしろ、うちのプログラマーでさえ頭を抱えていたものですから」

「たまたまだよ。だが、記憶喪失なのは本当だ。だから、君を呼んだ。金庫番の経理を任され、専務であるというのは、私に信頼されていたからだろう」

「どう答えていいのかわかりません。そう思っていただいているのなら嬉しいです」

「そこで、ざっくばらんに訊く。真理子の事、どう思う。会社ではどうなんだ」

「奥さんの事ですか」

「そうだ」

「よくやってくれていると思いますが」

「ざっくばらんに、って言っただろう」

「いや、本当によくやってくれていると思いますよ。突然の事で何もわからないのに、この二ヶ月間、それなりによくやってくれていたと思いますよ」

 二ヶ月間と聞いて、私は自分が意識を失っていた間の事を忘れていた事を思い出した。その間も、真理子は会社を守ってくれていたのだ。

「そうでなければ、トミーワープロも売り出せなかったかもしれませんから。一時、社内からどうするって意見があった時、こんな時だから、ちゃんと売り出しましょう、と言ったのは奥さんですから」

 そうだったのか。私は、大変な誤解をしていたのかもしれなかった。

「ただ、次の商品企画になると、ちょっと……」

「真理子では荷が重いか」

「そうではありませんが、会議に加わってもわからないと思うので」

「分かった。企画会議は真理子抜きでやっていい」

「わかりました。社長から話していただけるんですね」

「ああ、私から伝える」

「よろしくお願いします」

「もうひとつ、訊きたい事がある」

「何でしょう」

「私は女癖が悪かったのかな」

 この質問には、高木はびっくりしたようだった。しばらく答えなかった。

「大事な事なんだ。答えて欲しい」

 高木は言葉を選びながら答えた。

「お持てになっては、いたと思います」

「深い関係になった女については知らないか」

 高木はポケットからハンカチを出して首筋を拭った。

「さぁ」

 私は思いきって、あけみの名刺を出した。高木はその名刺を受け取って、表裏を見て、私に返してきた。そして、首を左右に振った。

「その女がこの病室に訪ねてきたんだ。つい先日の事だ」

「そうなんですか」

「また来ると言っていた」

「…………」

「百万円、いる」

「えっ」

「嘘か本当か、分からないのだが、彼女に百万円を渡す約束をしたみたいなのだ」

「そんな」

「私も驚いた。しかし、それなりの理由はあるようなのだ」

 私はその理由を言わなかった。

「…………」

「あまり、面倒な事にはしたくない。特に、真理子には知られたくない」

 こう言ったので、高木は勝手に合点した。おそらく妊娠させてしまって、密かに堕ろさせでもしたと思ったのに違いなかった。

「わかりました」

「で、都合つくだろうか」

「何とかします」

「百万円の出所は、真理子に分からないように、私の給料か賞与から引いておけばいい」

「はい。承知しました」

 私はやっと肩の荷が下りた。

「で、いつお持ちしますか」

「用意だけしておいてくれ。その時がきたら、今日のように電話で連絡する。それか、真理子にメモを渡すから受け取ってくれ」

「わかりました」

 それから、会社の事についてあれこれ話をした。一番気になっていたのは、カード型データベースソフトの事だった。金曜日に見た決裁書の案件の一つだった。

 私は留保した。私が仕掛けたトラップの事もあったが、それは簡単に解決のつく事だった。それよりも、せっかくトミーワープロに表計算ソフトもどきの機能を付け加えたのだから、それと連動できないか、という発想を思いついたのだ。ワープロソフトの画面をデータベースソフトの入力画面にできれば使いやすいに違いなかった。ワープロソフトとデータベースソフトをシームレスに繋ぐ方法はないものか検討する余地はないか。高木はソフトには詳しくなかったが、私に付き合ってくれて、そのあたりを私は熱心に話した。私が考える最大のネックはメモリ容量にあった。メモリがいくらでも使えるのであれば、重いソフトでもパソコン上で動かす事はできるが、その時のパソコンのメモリは僅かなものだった。ソフトを軽快に動かすために、いくらメモリを使わないか(どれだけソフトを軽くするか)を競っているような時代だったのだ。

 昼食の膳が運ばれてきたので、高木は帰っていった。

小説「真理の微笑」

三十二

 夕食を終えた。今日は土曜日だからリハビリはなかった。明日も日曜日だからない。

 それよりも月曜日からの言語聴覚士との事が気になった。今は喉を痛めているが元のように話す事ができるようになるのか。そうすると声はどうなるのだろう。私は富岡ではないのだ。

 その時、私は今朝の夏美との電話の事を悔やんだ。パソコン通信の事で頭がいっぱいで夏美と実質的な事は何も話してはいなかったではないか、と思ったのだ。

 すぐに電話機をサイドテーブルからベッドに持ってきた。ダイヤルを回した。何度か、コール音が聞こえた。義父が出た。私はすぐに電話を切った。そして、また、ダイヤルを回した。また、義父が出た。また切った。三度目にダイヤルした時に、夏美が出た。

「ごめんね。あなたからだと思ったんだけれど、父が出ちゃって……」

「あやまる事なんかないよ」

 私はゆっくりと言った。

「喉を痛めないように話しているのね」

「そう」

「上手くしゃべれないから、そうしているのね」

「そうだ」

「聞き取りにくいけれど、ちゃんと聞こえているわよ」

「よかった。今朝、電話した事、分かった」

「わかったわ。早速、電気屋さんに行って、パソコンとモデムを注文したわ」

「そうか」

「水曜日に届けてくれるって。その時に、パソコン通信ができるように接続してくれるとも言っていたわ」

「それでいい。電気屋さんに任せておけば、繋がるようになるよ」

「でも、その後、どうしたらいいの」

「手紙を送る。火曜日に出すから、木曜日には着くと思う」

「わかったわ。手紙を待っていればいいのね」

「そうだ。その中にパソコン通信ソフトと設定用のフロッピーディスクを入れておくから、手紙に書いてあるようにインストールするといい」

「わたしにできるかしら」

「大丈夫。分かりやすいように書くし、面倒な設定はフロッピーディスクに入れておくから、それを差し込むだけでいい」

「いいわ、やってみる」

「後は、手紙に書いてあるようにすれば、俺のメールを読む事ができる。夏美もメールを書いてくれ。返信というメニューを選択すれば俺のメール箱に届くから」

「わかったわ。ねぇ、あなた、パソコン通信なんて面倒な事しなくても、こうして電話をかけてきてくれればいいのに……と思うんだけれど」

「すまない。今はこうするしかないんだ」

「わたし……」

 夏美がそう言うと、泣き声が伝わってきた。

「あなたに会いたい。会いたくてしょうがないの」

 泣きながらそう言った。私も胸が熱く、そして苦しくなってきた。

「ごめん。俺もできる事なら、会いたいと思っている。でも、それはできない」

「何があったの」

「言えない」

「わたしにも言えない事なの」

「…………」

「わかった。訊かないわ。でも、わたしはあなたの事愛しているからね、どんな事があっても」

 私はその言葉に涙を落とした。今の私が、もはや夏美の知っている高瀬ではなくなっている事を言う事はできなかった。私は泣きながら、「許してくれ」と言って電話を切った。電話機の上に両手を乗せ、そこに顔を埋めてしばらく泣いた。

 

 ひとしきり泣いたら、パソコン通信ソフトのマニュアルを読んだ。私には難しくはなかったが、素人がこれを読みこなすには、骨が折れると思った。大体、インストールの仕方から起動までもが面倒だった。私は、マニュアルの余白にボールペンで分かりやすいように書き込みを入れた。下手な字だったが、読む事はできるだろう。

 一番分かりにくいのは、ダイヤルアップ接続の仕方だった。ソフトには、一応、大手の接続先の登録はされていた。だから、そこを選ぶだけで、接続先の電話番号を書き込む必要はなかった。私が入っていたパソコン通信会社も最大手だったので、一番先に登録されていた。それを選んだ後に確認画面になるのだが、登録内容を確かめるようにという表示が出る。そこはただ「OK」ボタンをクリックすればいいのだが、画面には、幾つものチェック欄があって、素人なら迷うだろう。

 後は自分のメールアドレス画面が出るのでそこに適当なハンドルネームを入力すればよかった。この場合、夏美の設定画面なので、私は「natti」と書き込んだ。夏美と付き合っていた頃は、なっち、と呼んでいたからだ。そして、後は、メールアドレスを確認する画面(メールアドレスを変更する場合は、ここでする)になるのでOKボタンをクリックする。今度は相手の、つまりこちらのメールアドレス画面になった。(株)TKシステムズで使っていたハンドルネームではなく、分かりやすく「Ryuichi」と書いた。書いているうちに、その上に涙が落ちた。後はこちらのメールアドレスを書き込み、夏美に送る方のフロッピーの設定は終わった。

 午後十時になって消灯時間がきた。その時に、看護師から眠剤をもらって飲んだが、なかなか眠れなかった。

小説「真理の微笑」

三十一

 真理子が戻ってくる前に看護師がやってきた。着替え用のパジャマを今日と明日の分の、合わせて二日分置いていった。明日が日曜だったからだ。その際、来週から言語聴覚士の所にも行く事になった事を伝えられた。どの程度話せるのか調べるのだと言う。

 真理子が帰ってくると、ベッドに電気量販店の袋を置いて、「これでいい」と言った。

 私は中を確かめて、「済まない、ありがとう」と答えた。

「ちょうど二つしかなかったわ。あなたの言っていたそのソフト」

「そうか」

 そうかも知れなかった。二つ買ってくるように言ったが、量販店でもこの手のソフトは一つしか置いてない事も多かった。ない事だって考えられた。私はあるソフトを探して秋葉原の店を何軒も見て回った事を思い出していた。二つあったのはラッキーだった。

 これで月曜日にラップトップパソコンが来れば、すぐに作業に取りかかれる。私は嬉しくなって、パソコン通信ソフトの箱を開いていた。箱の中は、フロッピーディスク一枚にマニュアルとユーザー登録用葉書が入っていた。私は早速、マニュアルに目を通した。

 真理子はといえば椅子に座って、コップの水を飲んでいた。

 

「隆一さん」

 突然、真理子にそう呼ばれて、私は反射的に顔を上げようとした。だが、日頃、自分は富岡だと言いきかせていたものだから、何とかそのままパソコン通信ソフトのマニュアルを読み続ける事ができた。

「高瀬隆一って言うのね、失踪している人の名前は」と真理子は買ってきた週刊誌を読みながら言った。しかし、真理子が私を見ているのは確かだと思った。真理子は私を試しているのか。そう思うのが普通だった。さっきの呼び方は私に向けられていた、と思う他はなかった。これだけ会っているのだ。私を富岡ではないと思っても不思議ではなかった。では誰なのかと思うだろう。富岡が自動車事故を起こした頃に失踪した高瀬隆一という人物が真理子の頭に浮かんできたのかもしれない。だが、そうだとしたら、どうしてこれだけキスをする事ができるのだろうか。私たちはまるで愛し合っているかのようにキスをしている。私は真理子を愛し始めているから、それは自然だったが、真理子の方はどうなのだろう。もし、確かめているのだとしたら、もう十分ではないのか。私には真理子の心も考えている事もまるで分からなかった。

 

 真理子は週刊誌を置いて、会社の話を始めた。

「会社の移転はそんなに時間はかからないようよ。業者が、ぱっぱとやるようだから」

「そうだろうね。家の引越しの大がかりなものだと思えばいい」

「それに、移転に必要な書類は役員たちがやってくれるようだし……」

 わたしなんて必要ないんじゃないの、と真理子は言いたげだった。

「家の改修は?」

 私は話題をそらした。

「そうだったわ。そっちも進めなければね。改修中は家にいなければならないから、会社には行けないわね」

「会社の移転と同じ時期にやればいい」

「わたしもそう思っている。でも、家の改修は一週間ほどかかるようよ」

「へぇ~、そんなもんで済むんだ。大した事ないじゃないか」

「会社の引越しは土日でやっちゃうから、それに比べたら……」

「家の方が大事だよ。真理子がいてくれなけりゃ、どうにもならないんだから」

 これは本音だった。私はまだ富岡の家に行った事すらない。ただ、改修の話を聞いているだけで自分の家だというイメージはなかった。だから、真理子にすべてを任せていたのだ。実際に富岡の自宅に入って、不便を感じたら、その時にまた直させればいい、そのぐらいに考えていた。

「家の事は覚えているの」

「いいや、全然」

 私は慌てて否定した。

「そうなの。覚えているのかと思った」

「それは違う。全く思い出せない」

「そうなの」

「事故を起こす前の俺はどうだったんだ」

「本当に思い出せないの」

「そう言っているだろう」

「わかったわ。教えてあげる。そうねぇ、あなたは会社人間だったと思うわ」

 私はどう答えていいか分からなかった。前に富岡の事を会社人間と訊いた時には、否定的な言い方を真理子はしていた。でも、今は会社人間だったと思うとはっきり答えている。一体、どっちが本当なのだろう。

「でも、夫としてはどうかな。わたしにはいい夫ではありませんでした」

 これは本音だろう。

「きついな。でもキスをしているじゃないか」

 真理子は近づいてきて私の顔をまじまじと見た。

「入院してからよ」

「えっ」

「あなたが目覚めてからキスをするようになったの」

「そんな。そうなの」

「ええ。そりゃ、結婚当初はよくしていたけれど……」

「じゃあ、どうして」

「最初は、あなたの記憶が戻るかと思って……。わたしの顔を見ても初めはわからなかったでしょ」

 私は頷いた。

「だからよ。キスすれば、少しは思い出すかもしれないと思ったの」

「そうだったのか。俺はてっきりいつもしているものだと思っていた」

「もう結婚して十二年にもなるのよ。そんなわけないじゃない」

 そうか、富岡は真理子と十二年間結婚していたんだ。だったら、子どもは? これまで話に出てきていないのだから、子どもはいないんだな。どうしてだろう。富岡か真理子に問題でもあるのか。

「でも、今は真理子といつでもキスをしていたい」

 真理子は笑った。

「いいわよ、ほら」

 私は真理子とキスをした。柔らかな唇だった。それをこじ開けるようにして舌を入れたら、真理子も口を少し開けた。真理子の舌と私の舌が絡まった。

 私は口を少し傾けて、真理子の口を吸った。真理子も応じた。その時、下半身に痺れるような感じを覚えた。私は勃起していた。

「あなた、変わったわね」

 真理子はそう言った。私はドキッとした。そう言われる事が一番、怖かったのだ。

 あんなキスをするんじゃなかったと思った。でも、真理子の唇を吸っていたら止められなくなった。真理子は美しかった。こんなにも美しい女性とキスをしていて、途中でやめられるだろうか。

 

 それからほどなくして真理子は帰っていった。明日、見積もりが来ると言っていた。だから、明日は来なくていい、と言ったら「わかったわ」と答えた。

 毎日、病院に来て、会社に行くのも疲れるだろう。それに、家の改修で見積もりが自宅に来る。それだって、時間がかかるだろう。真理子は、頑張りすぎているのだ。少しは休んだ方がいい。本気でそう思った。

 

小説「真理の微笑」

三十

 看護師が体温と血圧を測りに来るまで眠っていた。起きても、少し頭がぼうっとしていた。看護師が出て行くとベッドに横になった。そこでまた少し眠ってしまった。

 午前八時に朝食が運ばれてきて、再び起きた。

 朝食をとっている時、真理子がやってきた。眠れなかったのだろう。少し目が赤かった。

「休めているのか」

 私がそう言うと、真理子は首を左右に振った。

「今日は会社に行って、昨日決裁した書類を……」

 私はそう言いかけて、あの書類を真理子が誰に渡すのか分からなかった。会社組織がどうなっているのか、まだ知らなかったのだ。大事な事なのに後回しになってしまっていた。

「専務に渡してくれ」

 やっとそう言った。

「わかったわ。高木さんね、高木さんに渡せばいいのね」

 そうか、経理の高木が専務だったのか。

「社員名簿ってあるよね」

「あると思うわ」

「だったら、持ってきて欲しい」

「わかったわ。それだけでいい」

 議事録も欲しかったが、あれもこれも要求するのはやめた。

「書類を渡したら、社員名簿を持ってきてくれればいい。今日は、土曜日だからそれだけしたら家に帰るといい」

 真理子は素直にうなずいた。

 私は朝食をとり終わると、番茶で口をゆすいだ。もう番茶のとろみもなくなっていた。

 真理子を呼び寄せると抱き締めてキスをした。

 私たちは、思いのほか激しいキスをしていたのだろう。食べ終わった朝食の膳を片付けにきた看護師が、病室に入ったとたんに固まったくらいだったから。

 

 真理子が出て行くと、私はベッドサイドの電話機を取って、夏美の実家に電話をかけた。あいにく、義母が出た。私はすぐに電話を切った。少し待って、またかけた。また、義母が出た。また、すぐに電話を切った。

 電話機をサイドテーブルに戻そうとしたが、もう一度、かけてみようと思った。

 今度は長くコール音が続いた。受話器が取られた。

 しばらく沈黙が続いた。その後で、「いたずら電話ならやめんかい」と言う義父の声が聞こえてきた。私は受話器を置こうとした。その時受話器の向こうから「待って」と言う夏美の声が聞こえてきた。私は置こうとしていた受話器を再び耳に当てた。

「あなたね。あなたなのね」

 夏美は必死にそう言った。前は何も話さなかったが、今度はそうはいかなかった。伝えなければならない事があったからだ。

 私は緊張していた。少し心を落ち着かせてから、やはり潰れたような声で「そうだ」と言った。私の呻くような声を聞いて、「やっぱり、あなたね。声が変わっていてもあなただとわかるわ」と夏美は言った。

 私は自分に落ち着けと心の中で言った。何を話していいのか分からなかったのだ。

 だが、その時、昨夜、考えた事を思い出していた。私はゆっくり「パソコン通信ができるか」と言った。

「パソコン通信?」

 夏美は、突然難しい事を言われたので、私の言葉を繰り返すしかなかった。

 私はもう一度「そうだ、パソコン通信だ」と言った。

「パソコン通信って言っているのはわかるけれど、それをどうするの」

「パソコン通信を知らないのか」

「そんな事、急に言われてもわからないわ」

「パソコン通信ができるようにして欲しい」

「どうすればいいの」

「まず、パソコンがいる」と言った。

「パソコンが必要なのね」

「そうだ」

「わかったわ」

「それにモデムがいる」

「モデム」

「そうだ」

「ちょっと待ってね、メモを取るから」

 夏美はメモ帳とペンを探しているようだった。しばらくして「いいわよ、続けて」と言った。

 私はもう一度、「パソコンとモデム」と言った。これを夏美はメモしているのだろう。

「それに電話線ケーブルがいる」

「書いたわ。でもこれをどうしたらいいの」

「電気屋に頼め」

「そうよね。電気屋さんにお願いすればパソコン通信できるようにしてくれるわよね」

「そうだ」

「でも、機械が揃ってもどうしたらパソコン通信できるの」

 そうだった。これでは肝心な事が分からないではないか。第一、パソコン通信するためのソフトがいる。今までは(株)TKシステムズが独自で作った物があり、もっぱらそれを使っていた。しかし、(株)TKシステムズが倒産した今、(株)TKシステムズで作ったソフトを新たに購入する事はできないだろう。とすれば、今売られているパソコン通信ソフトを使うしかない。使った事はないが、経験上、それぞれのソフトには設定の仕方にそれぞれに特徴がある。自分で使ってみて、試すしかない。そして、それを夏美に伝えるのだ。しかし、これは電話でできる事ではなかった。

「手紙を出す」

「手紙? 手紙を出すって言っているの」

「そうだ」

「わかったわ。手紙が来るのを待っていればいいのね」

 パソコン通信の仕方を書いた手紙と、通信ソフトを送れば、夏美でもパソコン通信できるようになるだろう。

「そう、手紙に必要な事を書いて送るから、手紙が来るのを待て」

「わかったわ。待つわ」

 何とかパソコン通信の事は伝える事ができた。

 そうなると、今の夏美や祐一の事が気になり出した。

「元気にしているか」

 夏美も私の話し方に慣れてきたようだった。もう、繰り返さずに「ええ、元気にしているわ」と言ってきた。

「良かった」

「心配しないでもいいわ。わたしたちは元気にしているから。でも、あなたはどう。あなたの事が心配よ」

「心配しなくてもいい」

「そんなの無理よ。あなたの声を聞いていると、苦しそうだもの」

「声帯を痛めたので、こんな声しか出せない」

「生体をどうかしたの。躰のどこかを痛くしたの」

 声帯を夏美は生体と受け取った。私は言い方が悪かったと反省した。

「喉を痛めたのだ」

「喉を痛めたのね。そうか、さっきは声帯って言っていたのね」

「そう。だから、上手く話せない」

「そうか、喉を痛めたので、あまり良くはしゃべれないのね。今、あなたはどこにいるの」

「病院」

「病院にいるの。病院から電話をかけているのね」

「そう」

「だったら、わたし、行くわ。どこの病院なの。教えて」

 教えたくても教えられなかった。

「教えられない」

「どうしてなの。わたしはあなたの妻なのよ。妻にも教えられないの」

「そう。どうしても教えられない」

「ねぇ。わたしがどれほど心配しているか、わかる」

 夏美は電話の向こうで泣いていた。

「…………」

「何があったか知らないけれど、あなたの事、忘れた事は一度もないのよ。あなたがいなくなってから一度もよ。あなたに会いたい。どこか教えて。どんなに遠くても、すぐに行くから。ねぇ、お願い。お願いよ」

 私は涙が出てきた。夏美の最後の言葉は悲痛な叫びのように聞こえた。これ以上、話していると、心がはち切れそうにいっぱいになり、破裂しそうだった。

 私は受話器を置いた。そして、泣いた。最初は静かに、やがて号泣した。

 

 電話で夏美と話したい事は、まだいっぱいあった。

 辛くはないか。祐一はどうしている、学校には馴染んだか……。

 そんな言葉が、次から次へと頭に浮かんだ。だが、そんな話をすればするほど辛くなっていくだけだった。今も、そしてこれからも夏美に会う事ができないのだから。

 

 電話をサイドテーブルに置くと、そこからパソコン雑誌を二冊取った。パラパラとめくり、パソコン通信ソフトが載っているページを探した。

 パソコン通信ソフトは何種類か載っていた。しかし、(株)TKシステムズの頃は、自作していたから、気にもしていなかった。しかし、こうして雑誌で見ると、どれがいいのかまるで分からなかった。値段も低価格の物から高価格の物まである。普通のユーザーが使うのであれば低価格の物で十分だと思えた。仕様を見ただけでソフトの善し悪しは判断できなかった。こういったソフトは実際に使ってみなければ分からなかったのだ。

 それでも、これと思う物にボールペンで丸を付けた。

 

 午後になって真理子がやってきた。そしてキスをした。この甘美なキスの中に、夏美との会話で辛くなった気持ちを溶かしたかった。

 真理子は社員名簿を持ってきていた。印刷された物ではない。黒い硬い表紙に綴じ紐で綴じられた物だった。それに八十名ほどが載っていた。

 最初の方のページを開けると、社長以下役員の名前がずらりと並んでいた。

 代表取締役社長である私を筆頭に、専務、常務と続いた。専務はやはり高木だった。そして常務は田中だった。その後に真理子の名前があった。

 その他のページには総務部、営業部、開発部、販売宣伝部……と順にずらり並んでいた。それらは後で見る事にした。

「で、今日は、どうだった」

「別に何もないわ。あなたが決裁した書類を高木さんに渡してきただけ」と言った。

「そうか。会社移転の方は進んでいるようか」

「そうみたいよ。総務部が忙しそうにしていたわ」

 真理子はすっかりやる気をなくしたような言い方をした。

「真理子、頼みがあるんだが」

「なぁに」

「これなんだが」と言って、パソコン雑誌のあるページを見せた。そこには、丸を付けたパソコン通信ソフトが載っていた。

「丸が付いている物の事」

「そう。それを買ってきてくれないか」

「いいけど……、今から?」

「うん」

「そんな、今来たばかりよ」

「そこを頼む」

「それにパソコンが届くのは、月曜日よ。それからでも遅くはないんじゃない」

「そこをなんとか」

 私は、上手く動かせない手で、両手を合わせた。

「まったく、仕方ないんだから」

 真理子はハンドバッグを持って出て行こうとした。

「ちょっと待って、忘れていた。二つ買ってきて欲しいんだ」

「一つでいいんじゃないの」

「中身をいじるからさ、二ついるんだ。それと新しいフロッピーディスクも買ってきて欲しい。十枚パックのやつ」

「わかったわ。それでもういい」

「ああ」

「じゃあ、行ってくるわね」

 真理子は出て行った。ソフトの中身をいじるのに、いつもなら二つはいらなかった。プロテクトを外して、コピーすれば済む事だった。しかし、今、(株)TKシステムズにいるわけじゃない。プロテクトを外すのにも、それなりのプログラムがいる。(株)TKシステムズにはそれがあったが、ここでそれを一から作るのは、無理だった。解析プログラムを作るのにも、それを作るためのプログラムが必要だった。

 二つ買ってこさせたのは、もちろん、もう一つを夏美に送るためだった。パソコンがなくても、マニュアルを読めば、設定の仕方は分かる。

 夏美の事だから、すぐにでも近くの電気店に電話しているか、行くかしているだろう。来週になれば向こうでもパソコン通信の環境は揃っているに違いなかった。

 

小説「真理の微笑」

二十九

 夜、ベッドに入ってもなかなか眠れなかった。昼間聞いた夏美の声が耳に残っていた。

 真理子が病室に入ってこなければ、もっと夏美の声を聞いていただろう。私が話さなくても、夏美が話してくれさえすれば良かった。

 明日になったら、また電話をしようと思った。夏美が出てくれればいいが、そうでなければすぐ切ればいい。夏美が出るまで、電話し続ければ済む事だった。

 しかし、夏美が出たとしても何を話せばいいのだろう。第一、この声では上手く話せないではないか。伝えたい事は山のようにある。しかし、電話では上手く伝える事はできない……。そう思っていた時に、パソコン通信の事が頭に浮かんできた。パソコン通信を使ってメールを送ればいいではないか。

 だが、夏美の実家には、パソコンはなかった。パソコン通信のやり方は夏美も知っているから、パソコン通信ができる環境を、夏美の実家に作れば良かった。

 もし、夏美が出たら、パソコン通信ができるようにする事を伝えなければならなかった。上手く伝えられるだろうか。心配しても始まらない事だったが、考えずにはいられなかった。

 

 あけみの事も気にかかった。

 彼女の事だ。また来るに決まっている。百万円、渡さなければどうなるのだろうか。

 分からなかった。しかし、最初に病室に現れた時、修ちゃんと言って抱きついてきた事を思い出した。富岡とは親しかったのだろう。あるいは肉体関係を持っていたかもしれない。とすれば、そう無理は言ってはこないだろう。

 だが、お金が絡むと男女の仲は分からなくなる。早く手を打っておくに越した事はなかった。とはいえ、いいアイデアは全く浮かばなかった。

 躰が自由でありさえすれば、自分はトミーソフト株式会社の社長なんだから、百万円ぐらいのお金なんて何とでもできそうだった。そう思えるだけに歯痒かった。

 

 ナースコールをした。看護師がやってきた。

「どうしました」

 私は眠れない事を訴えた。

「じゃあ、眠剤をお持ちしますね」

 少しして、錠剤を入れた小さなカップと水の入ったコップを持ってきた。

 私は電動ベッドのスイッチを押して躰を起こして、小さなカップに入った錠剤を口に含むと、看護師が渡してくれたコップの水を飲んだ。看護師は空になったカップをポケットに入れると「これで眠れますよ」と言った。

 そうだといいが……と思ったが、看護師が病室の電気を消して出て行って、間もなくすると、睡魔に襲われ、私は眠りに落ちていった。

 

小説「真理の微笑」

二十八

 真理子は苛立っていた。

 話を聞いていくうちに、会社で浮き上がっている真理子が想像できた。

 真理子は取締役の一人に名前を連ねているが、形式的なものに過ぎなかった。それが私が入院しているので、私の代理になろうとしたのだ。

 しかし、会社組織は、にわか社長で務まるものではない。真理子には何の決定権もない。最初はともかく、何日かするうちにそれが真理子にも分かってきたのだろう。社外の誰かが訪ねてきても真理子に直接、話をする事はなかった。大抵は営業の田中が応対に出たのだろう。真理子は、自分の思うとおりにならないトミーソフト株式会社という会社に腹を立てていたのだった。

 

 私は夕食をとりながら、真理子の愚痴を散々と聞かされた。

 会社移転の話も場所が決まれば、いちいち真理子の指図は受けずに勝手に進んでいく。

 夕食が終わると、真理子はベッドテーブルの上に山のような書類を置いて、「これに目を通して決裁をお願いします、だって」と言った。

 とうとう社員たちも、真理子を女王様扱いするのをやめたのだろう。彼女の機嫌を取っていても仕事が捗るわけではなかったからだ。おそらく、敬遠し始めたのだ。そうなれば会社は居心地悪い。

「わたし、明日から会社に行きたくないわ」

「そう言わないでくれよ。俺は真理子の事を頼りにしているのだから。真理子が会社に行きたくないのと同じように、俺も病院にはもういたくない」

 真理子はくすりと笑った。

「なあ、前は真理子の事をどう呼んでいたんだ。お前って言っていたのか、それとも君か」

 私は思いきって訊いてみた。

「何言ってんのよ、お前って呼んでいたでしょ」

「そんな事も覚えていないんだよ。分かってくれよ」

「あなたは何もかも忘れているのに、何故かソフトの事は覚えている。不思議よね」

「…………」

「都合の悪い事だけ、忘れているんじゃないでしょうね」

「そんな事……」

 あるわけないさ、人が変わってしまったんだから、と思っても言えるはずがなかった。

 私は、真理子と話しながら、せっせと文書に目を通した。知らない事の方が多かったので、単に判を押すだけだった。

 ただ、データベースの開発の件についての書類を見た時、手を止めた。まだ開発中だったが、そこに書かれていた仕様は、(株)TKシステムズで作ろうとしていたカード型データベースと同じだった。カード型データベースソフトは、北村より私の方が詳しかった。北村は私の作ったソフトまで富岡に渡していたのだ。それを改めて確認する事になった。

 手は止めたものの判は押した。

「明日、これを会社に持っていってくれ」

 私は書類を真理子に渡しながら言った。

「わたしは伝書鳩なの」

「そんなわけないさ」

 私は書類を受け取ろうとする真理子の手を掴んでその唇にキスをした。長いキスだった。

 床に散らばった書類を拾いながら、「あなた、キスも上手くなったのね」と言った。

 ドキッとしたが、「そんな事ないさ。これは記憶を失った事の唯一の効用かもしれない」と言った。

「何、それ」

「初めて恋した時の気分になっているから」

 そう言ったら、真理子は拾っていた書類を置いて、再びキスをした。

 

小説「真理の微笑」

二十七

 ベッドサイドのテーブルから富岡の手帳を取り、カバーを見た。裏側には名刺を挟めるような切り込みが七段あった。しかし、そこにはクラブやバーの名刺は一枚も挟まれていなかった。

 表の方には、会員制のクラブのカードが何枚か挟まれていた。ゴルフ場の物が二枚あったが、「楓」というクラブの物はなかった。

 アドレスページをめくってみた。そこにもクラブやバーの店名も住所も電話番号もなかった。

 しかし、夕方五時以降の平日には、イニシャルと時間が記されている。その中に「A」のイニシャルはなかった。

 星印がついている日にあけみと会っていたのだろうか。いや、それは違う。星印は午後五時以降とは限らないからだ。あの街で偶然に彼を見かけた日にも星印がつけられていた。それは午後二時だった。

 北村とあけみが会っている時に富岡が割り込むのは、野暮というものだ。星印は北村と富岡が会っていた時と考えるのが妥当だろう……。

 ここで考えは行き詰まった。

 

 昼食の時間になった。すりつぶして成形したおかずから、柔らかめの煮物や骨が抜いてある白身魚のあんかけが出た。ご飯も軟らかめに炊いてあったが、お粥ではなくなっていた。食欲はなかったが、全部食べた。

 

 午前中の事が気になった。

 あけみはまた来る、と言った。北村から百万円もらえる約束をしていて、その北村が亡くなったのだから、あけみの論理では富岡に取りに来るのは当然の事なのだろう。

 こんな事で(株)TKシステムズの作ったワープロソフトが盗まれた事が悔しくてならなかったが、北村も富岡も死んでいる。あけみの話を聞けば、怒りがつのるだけだったが、その矛先を向ける相手はもうこの世にはいない。

 それよりもあけみの事をどうするかが問題だった。

 真理子に知られるわけにはいかなかった。といって、どうやって百万円もの金を工面したらいいのだろう。あけみに百万円を渡すのは悔しいが、それが一番面倒を起こさない事のように思われた。しかし、今の状態では、自分ではお金を動かす事はできない。だから、またあけみがやってきても何も解決できない。

 

 午後三時からのリハビリは、手足の運動と車椅子の操作はまあまあだった。だが、奥の部屋の女医による頭の体操は最低だった。見せられた絵を見て、同じように図を書く事はなんとかできたが、積み木のような物で、一度作られた図形をまねて作る事が上手くできなかった。最もひどかったのは百から七を引く暗算が、散々だった事だ。最初の九十三はできたが、次からがおかしかった。八十六ができても七十九ができなかったりした。

 やはり、あけみの事が影響していたのだろう。

 リハビリの後のシャワー入浴で少し気持ちも落ち着いてきた。躰がさっぱりすると気分も同じように……さっぱりとするわけにいくはずもなかった。

 

 そんな時だった。

「お電話をお持ちしました」と言って看護師が入ってきた。黒いダイヤル式の電話だった。

「繋ぎますか」と訊くので「お願いします」と言った。

 電話機はベッドサイドのテーブルの上に置かれた。これで外部と電話連絡が取れるようになった。そう思った時には、もう受話器を取っていた。自然と高瀬であった時の自宅の電話番号をダイヤルしていた。理性はやめろと言っていたが、そうせずにはいられなかった。しかし、電話が繋がると、「あなたのおかけになった電話番号は、現在使われておりません」というナレーションが聞こえてきた。

 そうだった。夏美は祐一と実家に戻っていたのだった。今度は、夏美の実家に電話をかけた。もし、夏美以外の義父や義母などが出たら切るつもりだった。

 呼び出し音が長く感じられた。しばらくして、受話器を取る音が聞こえてきた。

「もしもし、川村です」

 夏美の声だった。川村というのは、夏美の旧姓だった。

 その声は、二ヶ月前に聞いているはずなのに、随分と昔に聞いた感じがした。

「どちら様ですか」と夏美は訊いてきた。私が何も言わなかったからだ。その声を聞いているうちに涙が溢れてきた。電話口でつい嗚咽を止める事ができなかった。

 沈黙がしばらく続いた。そのうち、夏美から「あなたなの」と言う声が聞こえてきた。

「そうだ」と言えたらどんなに楽だろうと思った。私は泣き声を押し殺していた。

「あなたなのね」と夏美は言った。私は何も言えなかった。しかし、電話の向こうの夏美は、今電話をかけているのは、私だと確信しているようだった。

「心配したのよ」

「…………」

「もし、あなただったら……、話せないのだったら……、うん、でも、ああ、でもいいから、何か言って……」

 夏美の絞り出すような声に、私は何も返事をする事ができなかった。何も言わない私に「やっぱり、あなただったのね。今は、話せないのね」と夏美は言った。

 そうだ、話したくても話せない、と答えるわけにはいかなかった。

「だったら、聞いてね」

「…………」

「会社は倒産したけれど、わたしたちは大丈夫よ。こうして実家に戻って元気に暮らしている。祐一もこっちの学校に通っているわ」

「…………」

「捜索願を出したので、警察があなたの事を捜してくれているわ」

 刑事が来たから、それは分かっていた。刑事は、富岡が高瀬である私を殺したと思っているのだろう。

「あなたが生きていてよかった」

 夏美は本当に安堵しているようだった。私から二ヶ月も連絡がないのだから、死んだものと思っていたのに違いない。

「刑事からあなたの車が茅野で見つかったと聞いたわ。どうしてそんな所から……って思ったの。だって、茅野なんて行った事もないし……」

 私は答えようもなかった。声を出さずに、夏美の声を懐かしく聞いていた。

「だから、悪い想像ばかりしてしまったの。山で遭難したのだとか……」

 山で遭難か……、と思った。その方が良かったかもしれない。

「でも、こうして電話してきてくれたんだから、生きているのよね。良かったぁ」

 夏美の声が優しく響いてきて、荒んだ心を癒やしてくれるかのようだった。

「話せないのは、何か事情があるからなのね」

「…………」

「いいわ、何も言わなくて。どんな事情があるか知らないけれど、こうして電話をかけてきてくれるだけでいい」

 そこまで夏美の声を聞いた時、病室に真理子が入ってきた。私は慌てて受話器を置いた。

 真理子が言い出す前に、「今、会社に電話しようとした」と言った。

「そう」とだけ真理子は言って窓際に立った。いつもはキスをするのに今日はしなかった。

 まだ夕食まで少し時間があった。

「何かあったのか」

 真理子は「いいえ」と言ったが、何かがあったのだと直感した。

 まさか、あけみがあの後、会社に行ったのではないだろうか、と思った。

「誰か来たのか」

「いいえ」と真理子が答えた後、「誰が来ると言うの」と訊き返してきた。

 私は答えなかった。