小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十四

 寝るまでに三局した。さすがに、三局とも僕が負けた。しかし、数目の差だった。寄せで差を逆転されたのだった。

 寄せにも強くならなければならなかった。何事でもそうだが、最後まで気を抜いてはいけないのだ。 

 少しずつ、碁のことが分かってきた。

 

 朝になった。朝餉をとると、きくは白湯を貰いに行った。

 宿賃を払って外に出ると明るかった。今日も良い日だった。

 台車を押して、街道を歩いた。畑や水田が続いていた。

 そこを通り抜けると、稲荷神社が見えてきた。

 すると、定国が唸り出した。神社に公儀隠密が待ち伏せているのだろう。

「風車殿。ここできくとききょうを守っていて貰えませんか」と僕は言った。

 風車は「この先の神社に敵がいるのですね」と言った。

 僕は「ええ」と応えた。

「わかりました。ここにいましょう」

「お願いします」

 そう僕は言うと、境内に向かって階段を駆け上がって行った。

 境内には、五十人ほどの侍たちがいた。

 覆面をしていたから、公儀隠密の者たちに違いなかった。

 ぐるりと見渡した。手練れの者を集めたのだろう。

 静かだが、強い殺気が漂ってくる。

 先頭にいるのが頭だろう。彼らが動き出す前に片付けてしまうのが、得策だった。卑怯だとは思ったが、時を止めた。彼らが刀を抜く前に、定国を抜いて、端から腹を裂いていった。十人ずつ列になっていた。彼らの腹を切り裂くのに、数分とかからなかった。

 最後に頭の腹を刺して、元の位置に戻った。そして、時を動かした。

「おぬしを待って……」いたぞ、と言い終わらぬうちに、頭は膝を落とした。そして、後ろの者たちも腹を抱えて苦しみ出した。

「何ということだ」と頭は言った。

「戦う前から決着はついていたのだよ」と僕は言った。

「こ、これほどまでとは」と言って、頭は息を引き取った。

 他の者たちはまだ苦しがっていた。

 

 その時、定国が唸り出した。境内の下の方からだった。

 僕は境内を駆け下りていった。

 風車やきくとききょうが十人ほどの忍びの者に囲まれていた。

 まだ、斬り合いは始まっていなかった。僕は時を止めた。

 そして、刀を振りかざしている忍びの者たちの腹を定国で切り裂いていき、最後の者の着物で定国の刀を拭った。そして、鞘に収めた。

 時を動かした。刀を振りかざしていた忍びの者たちは、皆崩れ落ちていった。

「これは一体、どうしたことなのだろう」と風車は言った。風車の目の前で、時を止めて僕が敵を斬るのは初めてだったからだ。何が起こったのか、風車には分からなかったのだ。

 きくは僕の方を見た。わたしはわかってますよ、と言うような顔をしていた。

 僕は「さあ、追手が来る前に先を急ぎましょう」と台車を押した。

「ええ、でも不思議だなあ」と風車は言っている。当然だった。だが、説明するわけにはいかなかった。

 

 道すがら、風車はさっきの出来事をどう考えて良いのか、しきりに口にしていた。最後は、「あー、鏡殿が拙者には見えないほどの速さで斬っていったとか」と言った。半分当たっていたが、当人がすぐに「そんなわけないですよね。鏡殿は返り血を浴びていなかったものな」と否定した。時間を止めて、斬っていたので、返り血を浴びずに済んだのだった。それが幸いした。

「あーあ、わからん」

「世の中には、不思議な事ぐらいいくらでもありますよ」と僕は言った。

「そりゃ、そうですが、目の前で起こった事ですよ。それがわからないとなると、何を信じたらいいのか……」と言った。

「確かに、それはそうですね。でも、きっと理由はあるのです」と僕は応えた。

 

 次の宿場が見えてきたので、「あそこに着いたら、昼餉にしましょう」と言った。

 僕は時間を止めて戦っていたので、一刻でも早く休みたかったのだ。

 結局、一番先に目に付いた食事処に入って行った。

 卓に座ると、風車が女将に「何か変わったものでもあるかね」と訊いた。

「太うどんなんかはどうでしょう」と言った。

「太うどん。聞いたことないな」

「そうでしょう。うどんの太いやつです」と女将は応えた。

「だったら、それをもらおう」

 僕はこってりとしたものが食べたかったので、「鰻定食を」と頼んだ。きくは「掛け蕎麦にご飯をお願いします」と言った。

 食事が運ばれてくるまで、まだ風車は神社のことを不思議がっていた。

 僕は、境内にいた者たちのことを思った。

 咄嗟の判断で時間を止めたが、そうでなければ、大変な死闘になっていただろう。あそこにいた者はいずれもかなりの手練れの者たちだったからだ。

 相手も必死なのだ。しかし、これだけ手練れの者を失っていけば、相手の傷もより深くなっていく。江戸に近付けばもっと激しい戦いが待っているだろう。僕はそれを最小限の力ではねのけていくだけだ。

 掛け蕎麦が最初に来た。きくは僕らの食事が運ばれてくるのを待っていたが、僕が「冷めないうちに食べるがいい。ねぇ、風車殿」と言うと「そうですよ」と同意したので、きくは「お先にいただきます」と言って箸を付けた。そして、すぐに匙でご飯に汁をかけたものをききょうに食べさせていた。

 次に鰻定食が来た。僕はお腹が空いていたので、「お先に」と風車に言うと、鰻に箸を付けた。

 最後は、太うどんだった。うどんの器の中に太いうどんが入っているだけだった。

 漬物と味噌汁はついて来たが、それだけだった。

 風車は女将に「これはどうやって食うのだ」と訊いた。

「醤油をかけて食べるんですよ」と女将は言った。

「醤油をかけるだけですか」と風車が訊くので「ええ、そうですよ。それが通の食べ方なんです」と女将は答えた。

 風車はうどんに醤油をかけて、食べ始めた。太いだけあって、噛み切るのが大変そうだった。しかし、すぐに「美味い」と言った。

「これはこれでいける」と言った。

 凄い量が入っているように見えたが、太いうどんが一本ぐるりと回して入っているだけで、風車はすぐに食べ終えてしまった。

「何か物足りないな」と言った次の瞬間、女将を呼んで、僕と同じ鰻定食を頼んだ。

 食事をしている間に、僕の疲労感も薄らいでいった。

 しかし、この先、戦いが続けば今日のように、風車の目の前で時を止めた戦いもしなければならない機会も増えてくるだろう。

 今は怪しんでいるだけの風車もそのうちに気付くことだろう。共に旅をするのは良いが、そういうこともあることを頭の中に入れておかねばならなかった。

 これからは、できる限り、風車の目の前で時を止めるのは止めた方が良いだろう。

 戦いをそのように導かなければならないのが、難しそうに思えた。

 とにかく、しょうがないとき以外は、風車の前で時を止めないこと、そう心に決めた。

 

 そこできくは哺乳瓶に白湯をもらうと、代金を払って出た。

「次の宿場で今日は泊まりましょう」と僕は言った。

「ええ、そうしましょう」と風車も同意した。

 お腹の大きくなってきたきくは、健気にもききょうをおぶって歩いているのだ。あまり負担をかけたくはなかったのだ。

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十三

 宿場に着くと風車が食事処を探してくれた。

 風車が見つけた所に行き、奥の部屋に通されると、僕は畳の上に倒れるように寝転がった。

 女中が注文を取りに来た。僕はきくに任せた。

 風車は「鰻はないのか」と女中に訊くとあると言うので、「では鰻定食を頼む」と言った。それを聞いて、僕もきくに「同じものを頼んでくれ」と言った。

 結局、鰻定食三つを頼むことになった。風車のご飯だけが大盛りになった。

 

 僕は寝転がりながら考えた。相手は、おそらくもっとも手裏剣に長けた者を二十人も用意して待っていたのだろう。それでも僕を仕留められなかったことは、相手の方の痛手が大きかったことに違いがなかった。同じような手裏剣の使い手が、他に大勢いるとは思えなかったからだ。

 それなりに決戦に出ているのだ。しかし、ことごとく僕が弾き返している。一歩一歩と江戸に近付いている。焦っているのは、相手の方だろう。

 

 鰻定食が運ばれてくると、僕は起き上がった。考えていても始まらなかった。今は体力をつけておく方が大事だった。

 ききょうの面倒は、きくが見たが、時々、風車も何かをしたくなっているようだった。

「きく、風車殿に匙を貸してあげろ」と僕が言った。

「良いんですか」と風車が嬉しそうに言うと、「良いですよ」と僕は応えた。

 風車は肝吸いをかけたご飯をききょうに食べさせた。ききょうは風車の匙から、ご飯を食べた。風車はまたしても匙で食べさせた。それが何回か続いて、「ききょうちゃんは可愛いですね」と言って、風車は匙をきくに渡した。

 僕はご飯を食べると元気が出て来た。

「鏡殿はようやく元の調子に戻られたようですね」と風車が言った。

「ということは相手はそれほど強かったということですか」と訊いた。

「ええ、今までとは比べものにならないくらい強い連中でした」と僕は答えた。

「いよいよ、江戸に近付いたので、相手も本気になってきたんですね」と風車は言ったが、その通りだと僕も思った。

「風車様は呑気で良いですね。大変なのは私たちなのですよ」ときくが言うと、「それはそうでした。失礼しました」と風車が言った。

 勘定を済ませて、食事処を出た。

 

 山道が続いていたが、相手が襲ってくる気配はなかった。相手の戦力も相当削られているということなのだろう。

 襲われない間に僕たちは道を急いだ。

 次の宿場に来ると、風車はやはり道場を探していた。

「こんな所にはありませんよ」と僕は言った。

「でも、この前はあったじゃありませんか」と風車が言った。

「あれは、たまたまです」

「でも、ここにもたまたまってことはあるかも知れませんよ」

 結局、道場は見つからず、僕らは甘味処に入った。

 風車はぼた餅を三つ頼んだ。僕らはタレのかかったくし団子を二本頼んだ。ききょうのためにお汁粉も頼んだ。

「拙者も鏡殿のように忍びの者と戦えると良いのですがね」と風車が言った。

 僕は即座に「やめておいた方が良いですよ」と言った。

「何故です」

「相手は、普通の剣術使いと違って、手段を選んできません。手裏剣のような飛び道具で襲ってきますからね。慣れていないと簡単に手裏剣の餌食にされるだけですよ」と言った。

「そうなんですか。そういう相手と鏡殿は戦っているんですね」

「そうです」

 そう話しているうちに頼んだものが運ばれてきた。

 風車はぼた餅を、たちまち平らげた。

 僕らはゆっくりと食べた。

 僕の疲れはすっかり取れていた。

 ききょうは、匙で掬われたお汁粉を美味しそうに飲んでいた。ききょうを見ているだけで、心が癒やされる感じがした。

 ともすれば、このまま現代にきくとききょうを連れて行けば、事は済むのではないかと思ってしまう。しかし、僕の心の底では、僕らを狙う元凶をこのまま、この時代にのさばらせておくことはできなかった。必ずや、見つけ出し、その者に相応の報いを受けさせるつもりだった。

 そうでなければ、何も知らず命じられただけで死んでいった大勢の公儀隠密が報われないではないか。

 

 代金を払って、甘味処を出ると、「次の宿場で泊まりましょう」と僕が言った。

「そうですね」と風車も応えた。そして、囲碁をする手つきをした。

 僕は笑った。

 

 次の宿場に来ると、大きな看板を出している宿に泊まることにした。

 僕らは個室で一人一泊二食付きで四百文のところを、風車は相部屋で一人一泊二食付きで二百文の部屋にした。当然、僕らの隣の部屋を頼んだ。

 部屋に上がると、襖越しに風車が早速「一局、どうですか」と訊いてきたので、「先に風呂にしませんか。私は戦いをしたので」と言うと「そうでしたね。うっかりしてました。良いですよ。先に風呂にしましょう」と風車は言った。

 僕はビニール袋に入れた、長袖のシャツやジーパン、安全靴を取り出して、それらを丸めて、新しいトランクスに浴衣と手ぬぐいを持つと廊下に出た。

 風車が待っていた。一緒に風呂に向かった。

 風呂場で、僕が長袖のシャツなどを洗っていると、「珍しい物を持っていますね」と言った。僕はしまったと思ったが、風車が僕が長袖のシャツやジーパンを洗うのを見るのは初めてだろうかと考えた。風呂場では初めてかも知れないが、沢で洗うのは見ていたような気がする。

「これらは御禁制品なんですよ」と僕は言った。

「だから秘密ですよ」

「それで公儀隠密に狙われているんですか」

「まさか。それだけの理由ではありません。でも、私も理由が知りたい。そっとしておいてくれれば、こちらからは何もしないのに」と言った。

「全くですね」と風車は言った。

 

 風呂から出ると、碁盤を風車は持ってきた。

 風車は「拙者に負け続けるのは、面白くないでしょう」と言った。

 僕は頷くしかなかった。

「良いことを思いついたんですよ。置き碁って、知っていますか」と訊くので、僕は首を左右に振った。

「最初に石を置いておくのです。でたらめな場所ではありませんよ。置く場所は決まっています。例えば、四子、石を置くとしたら、この四隅の星の位置にそれぞれ石を置くのです。そして、勝負をする」

「つまり、ハンディ戦ですね」

「ハンディって何ですか」

「いや、つまり、力の差を同じようにするために、最初から差をつけておくことです」

「そう、それ。で、拙者と鏡殿の碁の力の差を考えたら、四子、置き石をすれば釣り合いが取れるんじゃないかと思いまして」と風車が言った。

「いいですよ。その四子を置いて、対局しましょう」

「そう来なくちゃ」

 

 置き碁は初めてだったが、面白かった。あんなに強かった風車がそれほど強く感じなくなった。四子最初に置いてあるせいで、四丁も成立しにくくなった。それに僕の石が囲いやすくもなった。

 戦いはどちらが勝つか最後まで分からなかった。

 最後に打って、目数を数えたら、僕の方が四目勝っていた。二度目の勝利だった。

 その時、夕餉の膳が運ばれて来た。

「夕餉の後に、もう一局やりましょう」と風車は言った。負けたのが、悔しかったのだ。

「良いですよ、やりましょう」と僕も応じた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十二

 湯船に浸かると、風車が「それにしても足袋の中に小判を入れるなんてね。思いつきもしませんでしたよ」と言った。

「鏡殿は鋭いですな」と続けた。

「それほどでもありませんよ。ただ、部屋に上がってまで足袋を履いているのが気になっただけです」と言った。

「そこ、そこが鋭いと言っているんですよ」

 僕は定国が教えてくれたとは言えなかった。

「風呂から上がったら、一局打ちましょうね」と風車は言った。

 そう来ますよね。僕は「いいですよ」と応えた。

 

 一局、終えたところで商人夫婦は戻ってきた。囲碁の方は、僕の完敗だった。

 襖越しに「お騒がせして済みませんでした」と声をかけてきた。

 風車が襖を開けて、「お金は戻ってきたんですか」と訊いた。

「おかげさまで」と亭主の方が答えた。

「それは良かった」

「玄関のところですられたようなんです」と奥さんが言った。

「玄関ですか。お金だけすりとるとは凄い腕ですね」と風車は言った。

「そうなんですよ。だから、財布を取り出すまで気付かなかったんです」と商人の亭主が言った。

「何にしても良かったですね」と風車は言って、会話は終わった。

 

 そうこうしているうちに夕餉の膳が運ばれて来た。

「今日は何かな」

 風車はおかずの蓋を取るのが、楽しみのようだった。それだけでも、三十両得て、一品増えたのは良かったのだ。

 今日は焼き魚と煮物とこんにゃくの刺身だった。後は、漬物とお味噌汁にご飯だった。

 こんにゃくの刺身には、酢味噌がつけられていて、美味しかった。

 

 夕餉が終わると、風車が碁を打つ手の真似をした。

 仕方ないな、と思いながら、部屋の隅に碁盤を置いた。

 僕が黒石を持ち、一手目を打った。打ち進んでいくうちに、四丁の形ができてしまった。今度も完敗かと思い、それなら四丁で石を取られて投了しようと思った。

 しかし、風車は読み違いをしていた。それは四丁にはなっていなかったのだ。当たり当たりと石を打たれていくうちに、風車は四丁にならないことに気付いた。風車が気付いて、僕も盤上をよく見ると、四丁になっていないことが分かった。

 風車は諦めて、別の場所に打った。四丁当たりに打ってきていたので、断点は無数にあった。僕はその断点に打っていった。気持ちの良いように石が取れた。

 風車の顔が赤くなっていくのが分かった。身を乗り出して、頑張り始めた。普通なら投了しても良さそうな局面だったが、そこは経験の差が出た。大きく勝っていたはずなのに、じりじりと追い上げられてきた。

 そして、ついに逆転した。勝てる囲碁を勝ちきれないのが、弱さだった。結局、三目差で僕が負けた。しかし、三目差は最後まで打ち続けた負け碁の中ではもっとも石の差が近かった。もう一度、風車が四丁を取り逃がすことがあれば、僕は次は絶対に勝ちたいと思った。しかし、風車の方でも、もう四丁を間違えることはしないだろう。

 石を片付けると、風車は自分の部屋に戻っていった。

 僕は布団に潜った。

「また、負けたんですか」ときくが言った。

「そうだよ」

「碁では勝てませんか」

「そう簡単に勝てるようになるものではない」と僕は言った。

 

 次の日も風車は上機嫌だった。ききょうのほっぺたを突っついて笑わせたりもした。

「何か良いことでもあったんですか」ときくが風車に訊いた。

 風車はそれを待っていたように「あったんですよ」と答えた。

「夢の話ではあるんですけれどね、拙者が鏡殿に真剣で勝負をして勝ったんですよ」と言った。

「まぁ」と言いながら、きくは笑った。

「いい夢でしょう」と風車は畳みかけるように言った。

 僕も笑うしかなかった。碁で勝っているので、それが夢になって現れたのだろう。

 朝餉は賑やかになった。

 風車は機嫌良く、夢の話を続けた。夢でも、僕に剣で勝てたことがよほど嬉しかったのだろう。

 僕は黙って風車の話を聞いた。

 

 朝餉が済むと、きくは哺乳瓶に白湯を貰いに行き、それから宿を後にした。

 台車を押すのも軽やかな良い日だった。

 街道は山道に入った。その途端に定国が唸り始めた。

 前方に敵がいるのだ。山道の両側は山だった。その間を街道は続いている。両側の山の中に忍びの者が潜んでいるのであろう。

 僕は足を止めると、風車に「どうやら、この先に敵が潜んでいるようです。風車殿、申し訳ないが、きくとききょうを頼みました」と言った。

「そうなのですか」

「はい。気配を感じるのです」と僕は嘘を言った。

「わかり申した。ここは任せてください」と風車は言った。

「では、頼みました」と僕は言うと、台車のショルダーバッグを開け、着物を脱いで、肌着を着て、長袖シャツに腕を通すと、ジーパンを穿いた。そして、草履を脱いで、安全靴に履き替えた。それから、前に向かって走り出し、右の山に入って行った。

 すぐに手裏剣が飛んできた。それは速くて正確だった。僕は定国を抜いて、弾き飛ばした。すると、次の手裏剣が襲ってきた。これも、定国で叩き落とした。それからは、次々と手裏剣に襲われた。

 僕は手裏剣の投げられた位置から、相手の居場所を探ろうとした。しかし、相手は手裏剣を投げると、すぐに木を飛び移って位置を悟られないようにしていた。これまで、対戦してきた忍びの者とは異なっていた。格段に強かった。

 相手は十人だった。だが、自分の位置を知られないように、絶えず動いていた。僕は弾き飛ばした手裏剣を拾うと、時を止めた。木から木へ飛び移ろうとしていた忍びの者が空中で止まっていた。そこに向けて手裏剣を投げた。手裏剣は、その者の腹に刺さった。

 時を動かすとその者が落ちてきた。駆け寄って、その者の腹を裂いた。

 その間にも手裏剣は襲ってきた。

 時を止めて、手裏剣を投げてきた場所に行った。相手は手裏剣を投げ終わると、もう移動しようとしていた。その腹を刺した。

 相手は巧妙に隠れているので、一回の時間を止めている間に数人をまとめて斬ることができなかった。どうしても相手の居場所を突き止めるために、時間を動かさなければならなかった。

 結局、全員を倒すのに、十回時を止めて動かすことを繰り返さなければならなかった。

 時間を長い間止めているのは、長距離走に似ているが、短時間に繰り返し、時を止めて動かすのは、ダッシュするのに似ていた。疲労の仕方が異なった。

 少し休んでから、街道に跳び出し、隣の山に入り込んでいった。

 やはり、すぐに手裏剣は飛んできた。その方向を見極めて、時を止めた。そして、そこにいた者の腹を突き刺した。そして、時を動かした。時を動かすとたちどころに手裏剣の雨に襲われた。

 今度の敵は、忍びの中でも選び抜かれた者たちだということが分かった。こちらに余裕を与えてくれなかった。

 手裏剣を定国で叩き落としながら、相手の位置を確認するのに必死だった。

 だが、それも簡単にはさせてくれなかった。そんなときは、また手裏剣を投げさせるしかなかった。手裏剣を投げさせ、その瞬間に時を止めて、その位置に走った。木の上にいる忍びの者を確認すると、木に登って、その者の腹を裂いた。そして、周りを見たが、忍びの者は巧妙に隠れていた。仕方なく、時を動かした。

 すると、手裏剣が襲ってくる。その瞬間に時を止めて、その手裏剣が投げられた位置まで走って行き、相手を見付けると、その者の腹を裂いた。

 こっち側にも十人いた。

 結局、こっちでも十回、時を止めて動かすことをした。

 十人を倒し終わった時には、僕は疲れ切っていた。

 木に凭れてすぐには立ち上がれなかった。

 木に凭れていると、沢の音が聞こえてきた。そっちの方向に歩いて行った。小さな沢だった。そこで水を飲み、長シャツとジーパンを脱いで洗った。血が飛び散って、付いていたからだった。それから安全靴を履いたまま洗うと、濡れた長シャツとジーパンを穿いて、街道に出た。遠くに風車ときくとききょうがいた。

 僕が手を振ると、彼らはこちらに向かってきた。

 台車は風車が押してくれていた。

 僕は濡れた長シャツと肌着、そして、ジーパンを脱ぐと着物を着た。それから安全靴を脱いで、足袋を履き、草履を履いた。

「相手は何人でしたか」と風車が訊くので、「二十人でした」と答えた。

「それはまた大変でしたね」と言った。

 僕は応える気力もなかった。

 濡れた長シャツなどは大きなビニール袋に入れて、台車の風呂敷包みの間に押し込んだ。

 街道の先は坂になっていて、その下に宿場らしき街並が見えた。

 そこに着いたら、昼餉にしようと思った。

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十一

 朝、起きると、ききょうがはいはいしてやってきた。抱え上げると、嬉しそうに笑った。頬ずりはせずにほっぺたをくっつけた。柔らかな肌だった。

「お前は美人になるな」と僕は、親馬鹿だが本気でそう思って言った。

 

 風車は朝餉でもご機嫌だった。昨日、荒木に負けたことを忘れたかのようだった。

「今日もどこか道場でも見付けたら、お邪魔しましょうよ」などと言っている。今度は勝つつもりなのだろう。

 小手が狙われているということが分かれば、風車ぐらいの力量の者なら何とか対処できるに違いない。そう思っているからこそ、道場を見付けたいと思っているのだろう。

 

 宿を出ると、急いで歩き出した。早く次の宿場に向かいたかったのだろう。

「風車殿。お気持ちは分かるが、私らは急いでは行けない。もう少し、ゆっくりと歩いて欲しいものです」と言った。

「これは失礼しました。気が急いていたものですから」と頭をかいた。

 

 次の宿場に着いた。風車は町道場を探したが、それらしきものはなかった。

「がっかりされることはないでしょう」と僕は慰めた。

「そうでござるな」

「少し早いですが、昼餉にでもしましょうか」

「そうしましょう」

 僕らは蕎麦屋に入った。

 品書きにそうめんと書かれていたので、風車も僕もきくもそうめんを頼んだ。

 のどごしのいいそうめんはすぐになくなったので、風車はおかわりをした。僕らもおかわりをした。

 ききょうには、ご飯をもらい、味噌汁を掛けて匙で食べさせた。

 きくがききょうの哺乳瓶に白湯をもらうと、代金を払って蕎麦屋を出た。

 

 次の宿場にも道場はなかった。

「そうそうに道場なんてありませんよ。ここは城下町じゃあないんだから」と僕は言った。

「それもそうですね」

 城下町でなければ、侍の子弟はいない。だから、道場もないのだ。竹内道場があったのが、珍しいくらいなのだ。

 その宿場では、お汁粉を食べた。風車は二杯も食べた。

 

 店を出ると、次の宿場で泊まることにした。

 僕はきくにあまり無理をかけさせたくはなかったのだ。

 歩いて行くと商人風の夫婦が追い越していった。その後に若い男にも追い越された。

 僕らはよほどゆっくりと歩いていたのだった。台車を転がしていたから、仕方がなかったのだが。

 

 次の宿場に来ると、どこに泊まるか迷った。どこも店構えは良さそうだった。

 仕方なく、近くの宿に泊まることにした。

 風呂に入ろうと準備をしていたら、隣の相部屋から商人の声で「財布の中に二十両がない」と言う声がした。

「道中ですられでもしたんだろう」と言う風車の声がしてきた。

「いや、宿に入る時には、ちゃんと財布の中に二十両はあった」と商人は言った。

「この宿でとられたんだよ」と商人の奥さんらしき人の声がした。

 商人は女将を呼んだ。そして、二十両がとられたことを言った。

「まぁ、大変」と女将は言い、女中に「番所に行って、役人を呼んできて頂戴」と言った。

 

 僕は風呂に行くどころのことではなくなっていることに思い至った。

 しばらくして、番所の役人がやってきた。隣の部屋を捜しているようだった。

 隣の相部屋には、商人夫婦の他に、若い男と風車がいた。

 風車の荷物が調べられ、巾着から四十両を超える大金が出て来た。

「これはどうしたことだ」と役人が風車に言った。

 風車は、高越藩の秋坂源治郎に頼まれ、追っていた脇村新左衛門を討ち果たしたことで三十両を手にしたことを話した。しかし、役人は俄には信じなかった。

 そこで僕が襖を開けて、役人に「風車殿の言われていることは、真です。私もその場におりましたから」と言った。

 役人は「貴殿は」と名を尋ねたので、「鏡京介です」と答えた。

「済まぬが、貴殿の部屋も改めさせてもらう」と言った。

 下役人が二人入ってきた。

「どうぞ」と言うと下役人はまず、僕らの身体検査から始めた。きくが五十両ほどの巾着を持っていたので、「これは」と訊かれたが、「江戸までの費用と江戸で暮らす資金です。それくらいは必要でしょう」と言うと彼らは納得した。僕らが個室に泊まっていたこともあったのかも知れない。金に困っているようには見えなかったのだろう。

 それは良かったのだが、荷物の中には彼らに見せられないものが入っていることに僕は気付いた。

 下役人が部屋の隅に置いてある荷物を改めようとした時、時を止めた。

 慌てて、千両箱やナップサックやショルダーバッグを取り出すと、それを布団の入れてある押入れに隠した。タオルに包まれたおむつはビニール袋に入っていたが、ビニール袋も取り去るしかなかった。

 おむつ代わりのタオルはしょうがなかった。普通のおむつと思うだろうと思った。着替えの着物をくしゃくしゃに丸めて膨らみを持たせた。風呂敷だけをきくの着物と僕の着物にかえて、その他は押入れに移動した。そこで時を動かした。

 下手役人が風呂敷を開けた。おむつの匂いが漂った。後は着物だけだった。すぐに風呂敷は閉められた。

「念のため、押入れも見てみよう」と言い出した。僕は風呂敷を隠すように立ってから、時を止めて、押入れに入れてあった物を風呂敷が置いてあったところに戻し、風呂敷で包んだ。ビニール袋も取り出し、おむつ代わりのタオルをそこに入れた。おむつの匂いはしなくなった。

 僕は風呂敷を隠すように立つと時間を動かした。押入れが開けられ、中を点検されたが、何も出ては来なかった。

「失礼した」と役人は頭を下げた。

 僕はほっと胸をなで下ろした。

 すると二十両はどこに消えたのだろう。

 さっき、風車を弁護するために相部屋に入っていった時に、若い男が足袋を履いていたのが気になった。

 時を止めた。床の間の定国を手にすると、鞘から抜き、隣の相部屋に入っていった。まだ下役人はいた。役人は相部屋に戻っていこうとしていたところだった。

 定国を持って相部屋に入ると、すぐに唸り出した。その音は若い男を示していた。その男に近付き、足袋を定国で指すと一層唸りが激しくなった。

 二十両は足袋の中に隠されていたのだ。

 僕は部屋に戻り定国を鞘に収めて、床の間に置いた。

 そして、時を動かした。役人が出て行こうとするので、「ちょっとお待ちください」と言った。

「何かな」と役人は言った。

「さっき、風車殿の釈明をするために、相部屋に入ったのですが、足袋を履いている者がいました。変ではないですか。もう初夏なんですから、部屋に入ったら足袋なんて、すぐに脱ぎたくなりますよね」と言った。

 役人は、はっとした顔をして、「その若い男の足袋を探れ」と下役人に言った。

 若い男は逃げ出そうとしたが、下役人に取り押さえられた。そして、足袋を脱がされた。すると、その足袋は二重底になっていて、その両足の足袋の中に十両ずつ、小判が隠されていた。

「ありました」と下役人の声がした。

「やはり、そこにありましたか」と僕は言った。

 役人は「貴殿に感謝する」と言うと、下役人に「その者を引っ立てろ」と言った。

 そして、商人夫婦にも「確認と調書を作るため、番所まで来てもらいたい」と言った。

「わかりました」と言って、商人夫婦は立った。そして、僕の方を見ると、頭を下げた。

 僕も軽く頭を下げた。

 

 部屋に戻ると、きくに「くしゃくしゃにして済まなかったな」と言った。

 するときくが「時を止めたんでしょう」と言った。

「どうしてそれを」

「だって、そうでもしなければ、千両箱が消えてなくなるわけがないでしょう」と言った。

「そうか。それもそうだな」

 

 そう言っている時に、風車が隣から「風呂にでも行きましょうか」と声をかけてきた。

「良いですね。待っててください」

 僕は支度をすると、廊下に出て、風車と一緒に風呂に向かった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十

 焼き芋を食べ終えると、早々に風呂に入った。今日は朝から忍びの者と一戦を交えただけでなく、竹内道場で稽古までしてきたのだ。躰は疲れていた。着物を洗ったとはいえ、沢の水で濯いだだけだったので、風呂場で足踏み洗いをしたいとも思った。

 風車も久しぶりに道着を着て、汗をかいただろうから、僕の提案に異論はなかった。

 着物とトランクスを洗い、髭を剃って風呂に入ると、風車が「鏡殿の剣はさすがですね。朝方は忍びの者を倒されたが何人ぐらいだったのでござるか」と訊いてきたので、素直に「三十人ほどでしたかね」と答えた。

「三十人もですか」

「ええ」

「それにしては、時間がかかっていませんでしたね」

「時間をかけると疲れるので」と答えた。

「そういうもんですか」

「そうです」

「そういえば、竹内道場での稽古も凄まじかったですね。四十人いた門弟を、木刀をかすらせもせず一瞬のうちに、木刀を叩き落としてしまった。あれには感服です」と言った。

「ちょっと、昔、道場をやっていたものですから、つい、そのくせが出てしまいました」と僕は言った。

 家老家の道場が今では懐かしかった。もう、あそこに戻ることはできないのだ。

 うっかり涙を落としそうになった。

 今日、竹内道場で稽古をしている時も、脳裏には家老家の道場のことが頭に浮かんできて離れなかった。門弟たちは純真だから、無心に向かってくる。それを叩いて叩いて鍛えていくのだ。

「何か思い出があるのですね」と風車が言った。

「ええ。いい思い出です」と応えた。

 

 風呂から出ると着物とトランクスを掛け竿に干した。きくとききょうが風呂に入りに行った。

 まだ夕餉までには時間があった。風車が部屋の隅に碁盤を見付けると、「一局どうですか」と訊いてきた。

「いいですよ。やりましょう」と答えた。

 

 碁は僕の完敗だった。風車は竹内道場での負けを晴らしたかのように喜んだ。

「もう一局」と言っているところに、きくとききょうが戻ってきた。

 きくはききょうがおむつ代わりにしているタオルを掛け竿に干し、そのタオルとタオルの間にそっと自分のショーツも掛けた。

 

 僕と風車の碁は二局目に入った。風車は碁が好きというだけであって、そう強いというわけでもなさそうだった。ただ、定石や手筋を知っているので、それに引っかかり僕が負け続けていたのだ。だったら、その定石や手筋にない手を打てばいい。とはいえ、定石や手筋にない手はそう見当たらなかった。僕はやはり地道に何手か先を考えて読むしかないと思った。

 また五目中手の手ができた。相手が誘っているのは、目に見えていた。今度は囲っているどの石が弱いのだろうと思った。しかし、そう簡単に分かるものではなかった。

 分かっていても誘いに乗るしかなかった。

 僕は五目中手にした石を囲っていった。風車はどこか弱い囲いを破るはずだった。しかし、目算が外れたのだろう。攻め取りにできるはずの石を一手負けで攻めきれなかった。そのため、外側に置いた石も無駄になった。五目中手にした大石は死んだ。

 その後も風車は必死で打ち続けたが、目算が外れた代償は大きかった。僕が僅かな差で逃げ切った。

 風車のがっくりした姿は、おかしなほどだった。

「もう一局」と風車が言った時に、夕餉の膳が運ばれて来た。

「食べ終わったら、もう一局ですからね」と風車は言った。

「いいですよ」と僕は言った。

 風車は早く碁が打ちたいがために、早食いしていた。僕はゆっくりと食べた。

 

 夕餉が済み、膳が片付けられると、部屋の隅に碁盤を置いた。

 布団が敷かれるのを邪魔したくなかったのだ。

 僕は天元に黒石を打った。

 すると風車がニヤリと笑った。

「真似碁ですか」と言った。

 風車が見破ったとおりだったのだ。最初に黒石を天元に打てば、次の白石はどこかに打たなければならなくなる。その打たれた白石に天元と対称になる位置に黒石を打っていけば、天元に先着した分だけ有利になるはずだった。

 しかし、風車は天元の下に白石をつけて打った。僕は反対側に打つしかなかった。すると第二着の横に並ぶように四着目を打ってきた。そして、打ち続けていくうちに、いつの間にか、最初に天元に打った石が取られる形になった。十八手目を打たれた時に、僕は投了した。

「それは昔からある手なんですよ。だから、破り方も知られている」と風車は得意そうに言った。

 僕は溜息をついた。こんな方法、誰でも思いつくよな、と改めて思った。

 もう一局打った。

 今度も僕の完敗だった。風車は竹内道場での敗北をすっかり忘れたようだった。

 

 いい時間になったので、風車は隣の相部屋に戻っていった。

 僕は布団に潜り込んだ。風車に碁で負けたことが尾を引いていた。

 隣にきくが潜り込んできた。

「竹内様が、鏡様のことをとても褒めていらっしゃいましたよ」と言った。

「そうか」

「ええ。荒木重左衛門様の時も、凄いと言われていましたが、門弟たちに稽古をつける姿を見て、余計に凄いと言っていましたね」と言った。

「荒木殿との立ち合いは、きくには見えていたのか」

「ええ、喉元に木刀を突きつけるまですべて見えていました」

「それは凄いな。あれだけの速さを目で追うのは大変なことだぞ」

「でも、わたしには見えましたわ。荒木様の木刀よりも速く動いているのがわかりましたもの」

「そうか」

「そして門弟たちの稽古です。これも凄い速さで動いていましたね」

「それも見えていたんだな」

「ええ、木刀を打ち落とす時に手加減されていたのもわかりました」

 僕は笑った。そこまで見えているのか、と呆れるほどだった。見えていれば、動くこともできるはずだった。妊娠していなければ、懐剣の使い方ももっと教えられたのにと思うと少し残念だった。

小説「僕が、剣道ですか? 5」

十九

 次の宿場に来ていた。ここは通過するか、甘味処でも見付ければ入るつもりだった。

 だが、途中で珍しく道場を見付けてしまった。

「鏡殿」と風車が言った。

 風車は道場の前を黙って通過するつもりはなかったようだ。

「入りましょうよ」と風車が言った。

 僕はそんなつもりはなかったが、風車の勢いに押された。

 きくも驚いているようだった。

「入るんですか」と僕に訊いた。

「風車殿に訊いてくれ」と僕は答えた。

 風車は道場の玄関を開けて、中に入ると「頼もう」と言っていた。

 すぐに門弟が集まってきて、その中の一人が「何の用ですか」と訊いた。

 風車は「一手、お手合わせを願いたい」と言った。

「道場破りですか」と門弟の一人が言った。

「いやいや、そんなんではござらん。ただ、通り過ぎるのもできかねて、御指南を受けたいと思っただけでござる」と言った。

 その時、長身の者が出て来た。

「拙者は荒木重左衛門と申す。今、道場主は所用で不在でござる」と言った。

「なら、貴殿でも構わぬ。お相手、願いたい」と風車は言った。

「道場主に無断でお相手はできぬ」と荒木重左衛門は言った。

 荒木重左衛門の言うことが道理だった。

 その時、玄関から「今、戻ったぞ」と声がした。

 荒木重左衛門が「先生」と言った。僕らが振り返ると、年老いた者がそこにいた。

「話は聞いていた。せっかく長旅をしているのだ。これっきりの機会と思って訪ねて来たのだろう。荒木重左衛門、相手をしてあげなさい」と言った。

 その老人は堂々としていた。道場主だけのことはあった。居留守を使っていたわけではなかったのだ。

 僕らが老人を見ていると、「拙者は竹内源五郎と申します。ここは竹内道場です。見ての通り、田舎の道場です」と言った。

「そんなことは」と風車が言った。

 竹内源五郎は「どうぞ、道場にお上がりください」と言った。

 僕は台車から荷物を取ると、草履を脱いで、道場の隅に座った。きくもききょうを連れて、僕の隣に座った。

「ところで、相手をしたいと言うのはどなたじゃな」と竹内源五郎が訊いたので、風車が「拙者です。風車大五郎と申します」と言った。

「そうか。風車殿でござるか。わたしは見ての通り、年をとりすぎておるので、そこにいる荒木重左衛門がお相手をするがよろしいか」と訊いた。

「結構でござる」と風車は言った。

「では、準備をなさるといい。誰か風車殿の体格に合う道着を持って参れ」と竹内源五郎が言った。

 門弟の一人が、風車の前に道着を置いた。

 風車が僕らの方で着物を脱ぎ、道着に着替えた。

 着替えると、道場の壁に掛かっている木刀を一つ取った。

 そして、道場の中央に立った。

 向こう側には、荒木重左衛門が立った。

 両者一礼をして、一端蹲踞をし、立ち上がると、前に進んだ。木刀をかわすと、竹内源五郎の「始めい」の声がかかった。

 二人は少し離れた。

 そして、間合いを詰めにいった。

 風車は相手の胴や頭を見ていた。荒木重左衛門は風車の手元を見ていた。明らかに小手を狙っていた。こんな試合では、小手の方が狙いやすい。風車は実戦には慣れているが、道場での稽古には慣れていないのだろう。小手が狙われていることに気付いてはいなかった。

 小手だから、間合いもすぐに詰められる。風車が相手の胴や頭を狙うために間合いを詰めにいった瞬間に小手を打たれた。

 風車は木刀を落とした。

「勝負あり。荒木の勝ち」と竹内源五郎が宣言した。

 僕は風車の元に走って行った。風車は手首を押さえながら「抜かったわ」と言った。そして「もう一手」と言ったが、僕が首を振った。

「これでもう良いでしょう」

 僕が風車を立たせると、竹内源五郎が「そちらの方は名前を聞いておらなかったが何と申すのですか」と訊いてきた。

「私ですか」と訊き返すと「ええ」と言うので「鏡京介と言います」と答えた。

「鏡京介殿……。もしや、あの鏡殿か」と言うので、あのが何を意味しているのか分からなかったが、「はい、鏡京介と言います」と繰り返した。

「そうですか、鏡殿でしたか」と竹内源五郎は呟くように言って、少し考えていた。そして顔を上げると、「荒木重左衛門。鏡殿に一手、御指南を受けろ」と命じた。

 僕は驚いた。そして、荒木重左衛門の方を見ると、僕に向かって頭を下げた。

 何だ。やる気満々じゃないか。これじゃあ、逃げ出すわけにもいかないではないか。

「では、道着をお借りしましょう」と僕はやむなく言った。

 道着を持って、きくのところに行くと「こんなことになってしまった」と言った。

 きくは笑って「いいじゃあ、ありませんか」と言った。きくは気楽で良いよな、と思った。今日は午前中にひと戦いしていることをきくは忘れているのじゃないかと思ったぐらいだ。

 僕は道着に着替えて、道場の中央に立った。

 竹内源五郎が門弟に「よく見ておくんだぞ」と言った。

 僕らは相対すると、一礼をして、木刀の先を重ねた。その時、竹内源五郎の「始めぃ」の声がかかったが、次の瞬間、僕の木刀は荒木重左衛門の喉元に突きつけられていた。

 門弟たちが見る隙も与えなかった。

 竹内源五郎は「勝負あり。鏡殿の勝ち」と言った。

 荒木重左衛門は僕のところにやってきて、「全く歯が立ちませんでした。踏み込んできたのにすら気付きませんでした。ありがとうございました」と言った。

 僕は竹内源五郎に向かって、「ご門弟たちに稽古をつけても良いですか」と訊いた。

「鏡殿が、門弟に稽古をして頂けるのですか」と訊き返してきた。

「ええ、軽くですけれど」と言った。

「それはありがたい。ぜひ、お願いします」と言い、門弟たちに「これから鏡殿が稽古をつけてくれるそうだ。言われるようにしろ」と言った。

 門弟たちは「はい」と答えた。

 僕は門弟たちの数を数えた。四十人だった。五人ずつ八班に組ませた。組み合わせは、門弟たちに任せた。

「五人ずつ、相手にする。それぞれ木刀を持ち、私を囲むようにするんだ。そして打ち掛かってこい。一人の木刀が私にかすりでもしたら、お前たちの勝ちだ」と言った。

「かすっただけでも良いんですか」と一人が訊いたので、「いいとも」と答えた。

「その代わり、私はお前たちの木刀を叩き落とす。手が痺れると思うが、我慢してくれ。一班全員の木刀がうち落とされたら、次の班に交代する。いいな」と言った。

 皆「はい」と答えた。

 僕は家老屋敷の道場にいる気分になった。

 最初の班の五人が僕を取り囲んだ。門弟たちは、木刀をかすらせることぐらいならできると思ったのだろうが、「では始め」と僕が声をかけた次の瞬間、瞬く間に全員の木刀がうち落とされていた。ほんの数秒だった。

「次の班、用意」と言った。次の班の用意ができると、僕は「始め」と言った。これも数秒でけりが付いた。誰もが信じられない顔をしていた。

「次」と僕は言っていた。そして「始め」と言うと、僅かな間に全員の木刀が叩き落とされていた。

 結局、四十人全員の木刀を落とすのに、何分も要さなかった。そして、僕は神棚に向かって一礼した。

 僕は竹内源五郎の元に行くと、「いい機会を作って頂きありがとうございました」と言った。

 竹内源五郎は「いやいや、お礼はこちらが言う方ですよ。それにしても凄かったですね」と言った。

「あれでは稽古になりませんでしたね」と言うと「何の。実戦を知らぬ者たちばかりだから、剣豪の強さを知るいい機会だったのですよ。手抜きをされてお茶を濁されるより、彼らにとってはいい稽古になったでしょう」と言った。

 僕が道着から着物に着替えると、竹内源五郎は「奥の座敷でお茶でもどうですか」と言った。喉は渇いていたが、僕は断った。急の訪問だったからだ。話をするのも面倒に思えた。

「今日はこの辺りに宿を取ろうと思っているのですが、どこかいい所はご存じですか」と訊いた。

 すると「松葉屋さんが良いんじゃありませんか。評判良いですよ」と竹内源五郎が言った。

「では、そこに泊まることにしましょう」

 僕はきくとききょうのところに行くと、荷物を持って玄関に向かった。

「今日は松葉屋というところに泊まることにした」と言った。

「そうですか」ときくが言った。

 竹内源五郎に頭を下げて道場を出ると、まだ風車は手を気にしていた。

「まだ、痺れるんですか」と訊くと、風車は「心の奥がズキズキと痺れているんです」と洒落た言葉を返してきた。

「あれは道場の戦法ですよ、小手狙いは」と僕は言った。

「そうなんですか」

「そうですよ。小手が一番間合いを詰めやすい。風車殿のように胴や頭を狙いに行くよりもずっとね。だから、道場では、まず小手を教えます。それを狙われたのです」と僕は言った。

「そうだったのか」

「相手は最初から小手狙いで来ていましたよ。小手なら、相手は何百回、何千回と練習していることでしょう、その差が出ただけです」と僕は言った。

 きくはちらっと僕の方を見た。

 僕は台車を押しながら、「あそこに焼き芋屋がいる」と言った。

「本当だ」と風車は言うと、もうそっちの方に歩き出していた。

 風車が離れていくと、きくは「京介様はお優しいんですね」と言った。

 それには答えず、僕は「きくも買ってこなくて良いのか」と言った。

「きくも買いに行きます」と言った。

 風車は三本買い、きくも三本買った。

「宿に着いたら食べよう」と僕は言った。

 ええ、という顔を風車がしたので、「あそこが宿だよ」と僕は指さした。その先には松葉屋の看板が出ていた。

 

 宿で部屋を取り、部屋に入ると早速女中にお茶を頼んだ。

 風車はお茶が来る前に、焼き芋を皮ごと食べていた。

 きくは皮を剥き、柔らかいところを冷ましながら、ききょうに食べさせた。ききょうは美味しそうに食べた。

 お茶が運ばれてくると、僕は一口飲んで、それから焼き芋に齧り付いた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

十八

 次の日は、晴れた。宿賃を払うと、宿を後にした。

 僕は台車を押しながら歩いた。

「雨の後は、清々しいですな」と風車が言った。

「そうですね」と僕は応えたが、公儀隠密に襲われなければですがね、と続けたくなったがその言葉は飲み込んだ。

 きくは宿で哺乳瓶に入れてきた白湯が冷めたので、ききょうに飲ませていた。

 

 山間の街道に入ると、定国が唸り出した。おそらく両側の林の中に忍びの者たちがいるのだろう。この位置に潜んでいるとすれば、手裏剣で襲ってくるつもりなのだろう。

 歩き続けようとしていた風車を僕は呼び止めた。

「この先に忍びの者たちがいます」と言った。

「真ですか」

「ええ、ですから、ここできくとききょうを守っていてください」と言った。

「任せてください」と風車は言った。

 僕は街道を走っていった。すると、案の定、手裏剣が襲ってきた。

 僕はまず右の山に入った。

 すぐに相手の居所が分かった。十五人いた。すると反対側の山にも十五人いるのだろう。

 僕は木を楯に相手に近付くと、定国を突き出した。相手は木の陰にいるものだから、腹を切ることはできず、横腹を突き刺した。一人を倒すと、次の者を捜した。次の者は近くの木に隠れていた。僕は素早く近付き、やはり相手の横腹を突き刺していった。そうやって、一人一人見つけ出して、殺していった。相手が何人いようと関係なかった。

 ただ、時間の問題だけだった。

 こちらの十五人は瞬く間にやっつけてしまった。時間を止める必要もなかった。僕は相手より遥かに俊敏に動いていた。

 僕が街道に飛び出すと、今度は反対の山から手裏剣が飛んできた。手裏剣の正確さからいって、彼らは選ばれて来た者たちなのだろう。しかし、僕には通用しなかった。手裏剣は、すべて定国が弾いた。

 僕は彼らの潜む山に入ると、林の中をじっと見た。相手はやはり十五人いた。

 向こうは手に手裏剣を持ち、僕を捜していた。

 僕は素早くその中の一人の横に行くと、その脇腹を定国で刺した。そして、すぐに横にいた者の脇腹も同じく刺した。そうして、次の者を捜した。見つけると、相手より素早く動いて、その者の隣に行くと、僕は定国で相手の横腹を刺していた。

 こちらの十五人もほどなく全員、脇腹を定国で刺し終えた。最後の一人の着物で定国を拭うと鞘に収めた。

 そして僕は街道に下りて、きくとききょうのところに行った。

 風車が「返り血を浴びていますな」と言った。

「沢か川を探しましょう」と続けた。

 僕は頷いた。

 しばらく行くと沢の音が聞こえてきたので、僕は着替えの着物とバスタオルを台車から取り出すと、沢の音のする方に向かった。

 あまり大きな沢ではなかったが、水たまりができていたので、まずそこで水を飲み、ついで着物を脱いで、頭と着物を洗った。

 そしてバスタオルで拭くと、新しい着物を着て帯を締めた。

 街道に降りてくると、きくとききょうと風車が待っていた。

 

 歩き出すと、風車が隣から「それにしても鏡殿はどうしてあの場所に忍びの者がいるとわかったのですか」と訊いてきた。

 当然の疑問だった。

「殺気です」と僕は答えた。

「殺気ですか」

「ええ、ただならぬ殺気を感じました。それで忍びの者が隠れていると分かったのです」とでまかせを言った。本当は定国が教えてくれたのだ。

「なるほど」と風車は感心したように聞いていた。

「鏡殿ほどの剣の達人になると、遠くからでも殺気を感じ取ることができるんですね」と勝手に納得していた。

 僕は違うとは言えなかった。風車の思うように思わせておく他はなかった。

 

 街道を進んでいくと宿場に出たので、お昼をとることにした。

 最初に見付けた蕎麦屋に入った。

 僕と風車はざる蕎麦にした。

「大盛りで」と風車が言うので、「私も」と僕も言った。

 きくは掛け蕎麦にご飯を頼んだ。匙もつけてもらった。ききょうのためだった。

 ざる蕎麦が来ると、僕と風車は瞬く間に食べ終えてしまった。僕は戦いで腹が減っていた。

 二人で顔を見合わせると、声を合わせたかのように「もう一枚」と言っていた。

 きくは笑いながら、ききょうに汁をかけたご飯を食べさせていた。

 

 僕は歩きながら考えた。相手が隠密を使って襲ってくるのは、公然と手配をしたのでは、僕が街道を離れて、人知れぬ道を進むことを恐れてのことだと思っていた。しかし、今日、戦ってみて、街道でも公然と襲ってくる。しかし、公にはしていない。

 ということは、相手には、僕を公に手配することなど、はなから考えていなかったことになる。長崎に出島を作って、鎖国政策をしているような国なのだ。外の情報を国内になるべく知らせたくないのだろう。そんな時に、僕のような得体の知れない者を公然と手配したら、公で裁かなくてはならなくなる。それでは幕府が困るのだ。得体の知れない者は隠密裏に葬るというのが、彼らの選択した答えなのだろう。

 それはそれで正しい。僕も公然と記録に残るわけにはいかなかったからだ。その点では利害が一致していた。