小説「僕が、剣道ですか? 6」

三十

 風車は、歩くのに支障がなくなってからは、遠くまで歩いて行った。歩くことから躰を鍛え始めていたのだった。

 畑の草取りもしてくれた。

 そして、怪我を負ってから一月が経った。僕は医者ではないから、風車の躰がどうなっているかは分からなかった。まして肋骨のひびが治っているのかどうかなんて、分かるはずもなかった。しかし、約束だから、これで床上げをした。そして、五十両を渡した。

 風車は渡された五十両をじっと眺めていた。

「行きたいですか」と訊いたら、黙って頷いた。

「好きにすればいいですよ」と僕は言った。

 

 昼前に玄関を出て行く風車を見た。

 僕は黙って見送った。五十両も持っているのだ。当分帰ってこないだろう、と思った。

 だが、五日ほどして風車は帰って来た。

 おやつ前だった。

 風車は奥座敷に僕を呼び出して、いきなり畳に手をついて頭を下げた。そして「おみねを身請けしたいのです」と言った。

「それには三百両必要なのです。鏡殿、どうか、一生のお願いです。その三百両をお貸し願えませんか」と続けた。

 予想はしていた。鈴蘭こと、みねに会った時から、吉原で働くよりも普通の女として家庭を築いていくタイプだと思った。風車には、お似合いだとも思った。

 だが、いざ身請けの話になるとどうしたらいいものか、まるで分からなかった。三百両を貸すというよりも、風車にあげることに何の異存もなかった。それで、風車が幸せになるのなら、それで十分、お金は生かされるのだ。

「分かりました。しかし、どうすればいいのか、分からないので、明日、高木屋に行きます。そこのご主人と話し合うということでどうでしょう」と言った。

「ありがとうございます。そうして頂ければ、話は進むと思います」と風車は言った。

 そして、そう言うと、風車は立ち上がった。

「どう、されるのですか」

「これから高木屋に戻ります。このことをおみねに伝えたいのです」

「そうですか。ところで、高木屋のご主人の名は何と申されますか」と訊くと、「高木五兵衛殿です」と答えた。

「分かりました」と言うか言わないうちに、風車は玄関に向かった。

 高木屋を出る前には、この事を話し合っていたのに違いないのだから、事の次第をみねに早く伝えたいのだろう。

 僕が玄関に出た時には、もう門の外に出ていた。

 

 おやつの饅頭を食べながら、きくに風車のことを話した。

「そうなんですか」と言った。

 そして、「遊女が身請けされるのは、一種の夢ですからね。しかも、風車様のような堅物の人に身請けされるのですから、いい話ではありませんか」と続けた。

「そうか。そう思うか」と僕は言った。

 どうなるのかは分からないが、ここは風車の好きなようにさせてやろうと思った。

 

 次の日、昼前に吉原の高木屋に向かった。

 店に入り、出て来た女に用件を伝えると、奥に通してくれた。

 座敷で待っていると、主人がやってきて座った。

 そして「高木五兵衛でございます」と頭を下げた。

 僕も、「鏡京介と言います」と言って頭を下げた。

 お茶が出された。

「どうぞ」と言われたので、一口飲んだ。

 相手は分かっているのだが、「御用向きは」と尋ねた。

「風車殿に関わることで、ここに鈴蘭という女がいますよね。風車殿が彼女を身請けしたいと言い出しましたので、私がこうして話をつけにやってきました」と言った。

 高木五兵衛は僕をじっと見て、「鏡京介様と言われましたな。それにしてもお若いですな」と言った。

 高木五兵衛は老獪だった。一口話すごとに「どこのご出身ですか」とか「何をされているのですか」とか、関係のないことを細かく訊いてきた。

「端的に話してください。鈴蘭さんを身請けしたいと言っているのです。どうすればいいのですか」と僕は言った。

 高木五兵衛はややこしいことをあれこれ言ったが、それは身請けに伴う言わば儀式のようなもので、僕には関係のないことだった。

「つまりは、三百両を用意すればいいのですね」と僕は言った。

「はい」とついに高木五兵衛は言った。

「その金をここに持ってきたときには、どうするんですか」と訊いた。

「わたしが三百両を受け取り、借金の証文をお渡しします」と言った。

「それだけでは、不服です。風車大五郎殿が鈴蘭ことみねを身請けしたという念書をお書きください」と言った。

 そう言うと高木五兵衛はふと笑いを漏らして「お若いのにしっかりしていますな。承知しました。証文と一緒にお渡しします」と言った。

「身請けには身請けの段取りがあるので、それはこちらに任せて頂きます」と続けた。

「そのあたりはお願いします」と僕は言った。身請けの段取りなど、僕にできるはずもなかったからだ。

「その間はどうなりますか」と僕が訊くと、「そうですね。一度、風車殿にはお帰りになられて、五日ほどしたら、使いの者をやりますから、風車大五郎殿と鏡京介殿が一緒に来て頂けますか。その時に、三百両はお忘れなく」と言った。

「五日もかかるんですか」

「鈴蘭が世話になった人に挨拶をする時間ぐらい与えてくれませんか。この吉原でもけっこうな人数になるんですよ。それに鈴蘭にも外のことを教えたいと思いますし」

「そういうことなら、分かりました」

「その時には、普通の着物を着た鈴蘭が吉原の門をくぐり、おみねになってここを出て行ってもらいます。それは華やかな光景ですよ」と言った。

 僕にも見えるようだった。

 

 座敷を出て玄関にいると、しばらくして風車が二階から降りてきた。鈴蘭も一緒だった。

 風車に「話はつきました」と言った。風車は頷いた。

 僕は鈴蘭に向かって、「後五日ほどの辛抱です。今日は、風車殿を連れて帰ります」と言った。

 みねは「いろいろとありがとうございました」と頭を下げた。

 玄関を出る時、風車とみねの手は離れ難いようにつなぎ合った。そして、その手が解けた。

 僕は、店の中に視線を向けている風車を引っ張るようにして、外に出た。

 道々、高木五兵衛と話したことを、風車に告げた。

 一つ一つ噛みしめるように、風車は頷いていた。

 

 浅草で、きくの好きな饅頭と魚を買うと、船着き場に向かった。

 風車は大きく溜息をついていた。

「五日ですよ。そうすれば晴れて身請け人になれます」と言った。

 言ってから、「身請けすると言っても、その後どうすればいいのだろう」と呟いた。

 それを聞いた風車が「わたしとみねで離れに住まわせてください。それだけで結構です」と言った。

 みねが離れに住むのは構わないのだが、風車はみねとどう暮らしていくのだろう。夫婦になる気はないのだろうか。

 気にはなったが、いろいろ考えてもしょうがないことだった。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十九

 風呂は風車と入った。

 風車の足腰がまだしっかりしていなかったことと、前の習慣からだった。ただ、ききょうが一緒に入れないことに駄々をこねた。

 駄々をこねるききょうに、「そんなに私と入りたかったか」と訊いたが、言っていることは分からなかっただろう。

 風車の打撲はほとんど跡が残っているだけに見えた。風呂の入り方もしっかりしていた。

「もう、大丈夫です」と風車は言ったが、「一月は休んでいてもらいます」と僕は言った。

 風車は僕に恩があるから、言い返せなかった。

 みねのことは、風車は何も言わなかったし、僕も訊かなかった。

 おそらくは、心は吉原にもう飛んでいることだろう。

 柳沢道場から、せしめてきた五十両を渡せば、その日のうちに吉原に行くことだろう。だから、一月はお金を風車に渡す気はなかった。もう半月程過ぎているから、後半月ばかりの辛抱だと思った。

 

 夕餉は、茄子とキュウリだらけと言った方が良かった。キュウリはそのまま切った物と浅漬けにした物が出たが、食べる方にすれば同じ物を食べている感じだった。

 茄子は揚げた物と焼いた物と味噌汁にした物が出た。

 揚げ茄子は好きだった。胡椒を買ってきてあったから、振りかけて醤油で食べた。美味しかった。でも、毎日、これだとききょうが茄子やキュウリ嫌いにならないかと、心配になった。

 その中でも、今日買ってきた魚の焼き物は、買ってきて良かったと思った。味が違うので、食が進むのだ。

 昔の人が、骨だけを残して、頭から皮まで食べるというのは、よく分かることだった。それだけ、魚は貴重だったし、大事に食べられたのだ。

 風車がお代わりをした。食が進むということは、それだけ回復してきているということだった。

 

「もう、しばらくしたら一局打ちましょうね」と僕が言うと、「今でも構いませんよ」と風車は言った。

「まだ、本調子じゃないでしょう」

「躰の方はそうですが、頭まで鈍ってはいませんよ」と風車は言った。

「それなら、奥座敷の蚊帳も買ってくれば良かった」と僕は言った。実際のところ、寝室と離れの蚊帳で手一杯だったのだが。

奥座敷でなくても、離れで打てばいいではありませんか」と風車が言った。

 確かに、大きな蚊帳を買ってきたから、布団をどければ碁は打てる。

「それなら、奥座敷から碁盤を持っていきますから、待っててください。その前に寝室の蚊帳を吊らなくてはなりませんからね」と言った。

「ゆっくり蚊帳を吊ってください。拙者は待つのは得意ですから」と風車は言った。

 

 寝室に蚊帳を持ち込むと、ききょうが喜んだ。僕が踏み台に乗って、鉤に蚊帳の輪っかをかけるのを楽しそうに見ていた。六箇所、輪っかをかけると、寝室がすっぽりと蚊帳の中に収まった。端が少し、寝室の隅から離れている程度だった。

 そこから、ききょうははいはいをして何度も出たり、入ったりした。そして、蚊帳に掴まって、立とうとした。

「ダメダメ」とききょうを蚊帳から離した。

 きくも来て見ていた。きくは何も言わなかった。楽しそうに笑っていた。

 

 寝室に蚊帳を吊った後で、奥座敷から碁盤を持って、離れに行った。

 風車は起き上がって、待っていた。

 碁は二子で、二局打った。

 最初は、僕が完敗した。二局目も僕の見損じで、大石が取られるところだった。だが、その大石を風車は取らなかった。そのために、三目差で僕が勝った。一勝一敗という結果だった。しかし、二局目は、風車が大石を取ったところで、僕は投げようと思っていた。勝ちそうなところで、風車は僕に勝ちを譲ったのだ。

 僕はそれについては何も言わなかった。

「明日もやりましょう」と言って、離れを出た。

 

 寝室では、きくとききょうが蚊帳の中で眠っていた。今日からは、蚊に悩まされずに眠れることだろう。

 僕は時を止めて、奥座敷に向かった。時を止めているから、蚊には刺されなかった。

 あやめがいたので、近付いて抱き締めた。あやめは僕の胸に顔を埋めた。

 そして、顔を上げて「わたしのことが主様にどう見えているか、わかっただけでも嬉しいです」と言った。

「また、そのことか」

「わたしは自分の姿を見ることができないんですよ」

「そうなのか」

「ええ」

「鏡は見ないのか」

「わたしは、鏡には映りません」と言った。

 なるほどと僕は思った。あやめが鏡に映らないのは、霊には実体がないからだ。だから、僕の心を通してしか、自分を見ることができないのだ。そして、僕を通して、自分を見ることで、僕があやめを美しいと思っていることが、必然的にあやめに伝わってしまう。

「しょうがないな」と僕は言った。

「主様の目を通して、自分を見てもよろしいんですね」

「駄目だと言っても見るだろう」

 あやめは答えなかったが、あやめが嬉しがっていることは分かった。

「今日は、吉原に行ってきたんですね」

「ああ」

「おみねさんっていう人ですか、風車様が思っている人は」

「そうだ」

「良かった」

「どうしてだ」

「だって、おみねさんには、主様は興味を示さなかったでしょう」

 あーあ、そういうことも分かってしまうのか、と思った。

「なぁ、私の……」と言いかけて、あやめが「心を読むな、でしょう。わかっていますよ」と言って笑った。あの笑いは、私の考えることはお見通しだと言っているようなものだった。

 

 次の朝、起きると、踏み台を使って、蚊帳を外した。ききょうは蚊帳に包まって遊んだ。

 そのききょうを抱き上げると、蚊帳を畳んで押入れに入れた。それから、布団も畳んで押入れにしまった。

 顔を洗ってきた後で、ききょうを畑に連れて行った。茄子やキュウリがなっているところを見せるためだった。

 キュウリを触らせたら、その棘に痛がった。そのキュウリをもいだ。後、二本ほどもぐと、ききょうと庖厨に向かった。

 三本のキュウリを渡そうとしたが、炊事場のまな板には塩もみしているキュウリがあった。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十八

 風車の躰の傷は、日を増すごとに良くなっていった。

 そして、食欲も出て来た。まだ風呂には、入れないので、僕が一日置きに、風呂を焚いた時の湯で、躰を拭いた。下の方は自分で拭いていた。着替えもその時に行った。

 こうして、半月ばかりが過ぎた。風車は床から起き上がるようになり、家の中だけでなく、庭も散歩するようになった。

 

 畑の野菜も実り始めた。

 茄子はまだ大きくならないうちに採り、味噌汁などに入れた。茄子はこれからどんどん採れるだろう。

 キュウリは真っ直ぐにはならなかった。どうしても曲がってしまった。でも、切ってしまえば同じことだった。

 三食ともキュウリが出て、味噌を付けて食べた。

 舟を使えば、両国より浅草の方が近かったので、これも一日置きに、僕が買物に出かけた。その時には、魚を買ってきて、焼いて食べた。

 そして、浅草に行ったときは、饅頭と羊羹も忘れずに買ってきた。どちらも、きくとききょうが好きだったからだ。もちろん、僕も好きだった。

 

 風車が風呂に入りたいと言い出した。躰を拭いているだけでは足りなかったのだろう。肋骨にひびが入っている場合に、風呂はどうなのか分からなかったが、本人が痛がらなければ、それに任せようと思った。

 躰を拭くときに見慣れているとはいえ、脱衣所で全身を晒した風車を見ると、やはり打撲の跡が数多く残っていた。腫れはひいていた。

 風車は久しぶりに頭を洗ったので、気持ちよさそうだった。

 僕が手を貸して風呂に入れた。顔を両手でこするようにして、「ああ、やはり風呂はいいですな」と言った。

「長湯は駄目ですよ」と言った。

「わかっています」と言って、風車はすぐに出た。

 風車の背中を拭いて、浴衣を着せると、「さっぱりとしました」と言った。

 僕は風車のすぐ後ろを歩いて、転ばないように注意した。風車の足取りはしっかりとしていた。

 風車は離れにはすぐに行かずに、奥座敷の縁側に座った。涼んでいたのだ。

 すると、すぐに蚊が寄ってきた。団扇で追い払っても、キリがなかった。

「今まで思いつきもしなかったが、明日にでも、浅草に行って蚊帳を買ってこようか」と呟いた。

 すると、それを聞きつけた風車が「そうですな。少し遅くはなりましたが、蚊帳がいる季節ですな」と言った。

「そうですね。いろいろあって、すっかり忘れていました。明日、買ってきます。もちろん、離れの分も買ってきますから」と僕は言った。

 風車は「そうして頂けるとありがたいです」と言った。

 蚊に結構、刺されたので、屋内に避難した。

 虫刺されのクスリでもあればいいのにと思ったが、まだ蚊取り線香もない時代のことだ。皆、苦労していたんだな、と思った。

 僕が居間に行こうとしたら、風車に袖を掴まれた。

「明日、浅草に行くんですよね」と言った。

「そうです。言ったでしょう。蚊帳を買いに行くんです」

「わかっています。だったら、お願いがあります」

「何ですか」

「鈴蘭というのが、店での名前ですが、おみねという娘に手紙を書きたいので、渡してくださいませんか」

「えっ」

「そのおみねがわたしが馴染みにしている女なんです」

「はぁ」

「もう、半月以上も吉原には足を運んではいません。どうしたのかと、心配していると思うんです」

 そうだろうか、と僕は思った。吉原の女だ。風車のことは、この半月程の間、すっかり忘れているのではないか。そう考えるのが普通だった。

 だが、風車は真剣だった。

「いいでしょう。どうせ、浅草に行くんだから、そのおみねさんに手紙を渡して来ましょう」

「ありがとうございます。すぐに書きます」

 

 次の日、舟に乗り対岸に渡ると、浅草を通り越して、吉原に向かった。吉原はいつ来ても、人で賑わっていた。

 前に、お金を届けに来ているので、店は知っていた。高木屋だった。すぐに見付けると、中に入った。女が出て来て、僕の顔を見て、前に金を届けに来た者だということを思い出したようだった。

「今日は、どんな用でしょうか」と初めから訊いた。

「この手紙を鈴蘭さんに渡したい」と答えた。

 女は手を出して、「それなら、わたしから渡しますよ」と言った。

「いや、直接、渡したい」と言った。

「では、捜してきましょう」と奥に行った。そして、すぐに出て来て「今、客を取っているので、わたしが受け取っておきます」と言った。

「なら、待たせてもらおう」と言うと、「いつになるか、わかりませんよ」と言った。

「ただ、渡すだけだ。中座してもらえないか」と言った。

「わかりました」と言って、中に入っていった。

 鈴蘭はすぐにやってきた。

「接客中に済まなかったね」と言うと「何ですか」と言った。

 あの女が言ったことは嘘だったのだ。

 鈴蘭は目の細い、僕のタイプの女ではなかったが、気の良さそうな女だった。

 風車の名前を出すと、「どうしていらっしゃるんですか」と訊いた。

「このところ、お見えにならないので、心配していたんです」と続けた。

「そうですか。風車殿から、あなたへの手紙を預かってきました」と言った。

「わたしへのですか」

「そうですよ」

「そうですか。では、お見せくださいますか」と言った。

 僕は懐から手紙を出して、「これです」と言って渡した。

 鈴蘭ことみねはその手紙を大事そうに受け取った。

 すぐに読みたそうだったが、はしたないとでも思ったのだろう。懐にしまおうとした。

「今、読んでください。事情を説明しますから」と僕が言うと、「わかりました」と言って、手紙を包んでいた紙を開き、中身を読んだ。

 手紙には、『おみねのことは片時も忘れたことはない。今は、事情があって、そちらに行けない。あと、半月もすれば会いに行く。それまで待っていて欲しい』というような事が書いてあるはずだった。風車が手紙を僕の前で書いたので、おおよそのところは合っているはずだ。

 僕は、手紙を読んだおみねの目を見た。心配していることが分かった。

「事情は本人が話すことだから言えないが、あることで怪我をしているのです。それでここに来ることができないでいます」と言った。

「怪我をされているのですか」

「ええ」

「大怪我ですか」

「まぁ、そこそこの怪我です。手紙に書かれているように、そのうち、ここに来られるでしょう」

「そうですか」

「怪我について、私が話したことは内緒ですよ」

「わかりました」

「風車殿に伝えることはありませんか」

「お待ち申し上げています、と伝えてください」

「そうですか。そう伝えましょう。では、失礼します」と言って店を出た。

 

 店を出ると、急に暑苦しく感じた。日差しが強かった。もう晩夏だというのに。

 浅草に行くと、道具屋を探して、店に入った。目の前に蚊帳がいっぱいあった。大きさもそれぞれだった。今朝、寝室と離れの広さと高さを測ってきた。江戸時代の長さの単位には、詳しくないので、きくや風車に訊いて、それを紙に書き付けてきた。

 その大きさを言うと、すぐに適当な物を選んで出してくれた。これをどう取り付けるのか知らなかったので、そのあたりのことはしつこく訊いた。そして、必要な物も買った。

 蚊帳は風呂敷に包んでもらったが、結構な大きさだった。魚や饅頭や羊羹を買わなければならないので、帰りに寄ると言って、代金を支払って店を出た。

 魚や饅頭や羊羹を買うと、道具屋に寄り、大きな風呂敷包みを受け取ると、船着き場に向かった。

 舟に乗る時がひと仕事だった。先に他の客を乗せて、僕が最後に乗り、風呂敷包みを受け取った。隣になった老人は、「蚊帳ですか」と訊くので「ええ」と答えると、「そのうち、蚊帳売りが来ますよ」と言った。

「そうなんですか」と僕は言った。蚊帳売りなんて見たこともなかった。

「ええ、二人一組の粋な格好をした売り手がね」と言った。竹竿売りと似ているな、と思った。

 向こう岸に着いた時は、風呂敷包みを受け取ってもらって、僕が降りて、それを受け取った。嵩張るだけで、さして重くはなかった。

 

 家に着くと、早速、風車におみねの伝言を伝えた。

 風車は「そうですか」としか言わなかった。

 伝言を伝えた後は、蚊帳を張る準備をした。踏み台を持ってきて、に鉤(かぎ)を金槌で打ち付けた。その鉤形のところに丸い輪になっている蚊帳の隅から端をかけていくのである。六箇所に鉤を打った。

 次は、離れだった。同じように鉤を取り付けていった。

 風車は、布団にいることが多いから、もう蚊帳を吊ることにした。踏み台を使って、六箇所の鉤に丸い輪をかけた。蚊帳は、吊られて、四角いテントのようになっていた。

 そして、蚊が入らないように蚊帳を広げて、布団をその中に入れた。

 風車が忍び込むように蚊帳の中に入っていくと、それを見ていたききょうも真似をした。はいはいしながら、蚊帳の中に入って、得意そうな顔をした。

「どうです。これでいいでしょう」と僕が言うと、風車は「ええ」と答えた。

「ききょう、こっちにおいで」と言うと、言葉が分かるのか、はいはいして蚊帳から出て来た。

「寝室にも吊るからな。今日はその中で眠るんだ」とききょうに言った。言っている意味が分からなくても良かった。

 

 おやつは羊羹だった。

 畑には、慣れなかったものだから、茄子とキュウリは作ったが、畝の端になんだかよく分からない種も蒔いていた。それらは何が育つのか分からなかった。すると青菜が生えてきたので、茹でて食べた。これは、採っても次がすぐに生えてきた。

 草取りも面倒だった。風呂焚きの時間まで、草取りに追われていた。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十七

 風呂はききょうと入った。

 風呂上がりに、新しく購入してきたおむつを当ててみた。タオルとは感触が異なったが、こちらの方がおむつとしてしっくりときた。おむつカバーをして、湯上がり用の着物を着せて、湯屋を出た。

 風車は当分、風呂には入れなかった。傷が少し癒えたら、躰を拭いてやるつもりだった。

 厠には、何とか自分で行っているようだった。

 

 夕餉は風車はお粥だった。離れの寝床から、躰を起こして、食べさせた。ききょうも同じ物を食べた。

 夕餉の時に、今日、何があったのかをもう一度、詳しくきくに話した。

「そうでしたか。京介様は出かける時には、怖い顔をされていましたが、帰ってきた時は、いつも通りだったので、事は無事に済んだものと思いました」

「そうか」

「はい」

 

 夜は僕が離れで看病をすることにした。

 きくが眠ると、時を止めて、僕は奥座敷に行き、あやめを呼び出した。

「私の記憶を読み取ることができるか」と訊いた。

「主様が許してくれるのなら」と答えた。

「それでは、今日の柳沢道場で起こったことをこれから思い浮かべるから読み取って欲しい」と言った。

「わかりました」

 僕は今日の出来事を頭に浮かべた。

「読めました」とあやめは言った。

「では、離れに行くぞ」と言った。

 離れに入る時、行灯の光にあやめは反応したが、それも一瞬だった。

「私の頭から読み取ったことを風車殿に見せてやって欲しい。あくまでも、夢でも見ているように」と言った。

「はい」と言うと、あやめは手を風車の額に当てた。

 それはほとんど一瞬だった。

「終わりました」

「それで終わったのか」と僕が尋ねるほどに、短かった。

「ええ、もう想念は送りました。風車様が夢を見るのは、これからでしょうが」と言った。

「そうか。なら、奥座敷に戻ろう」

 奥座敷に戻ってくると、「主様の剣捌きは凄まじいですね」と言った。

「そうか。あやめにも当然見えているからだな」

「はい」

「風車殿には、どれだけ効果があるのだろうか。あれを真実だと思うだろうか」

「真実だとは思わないと思いますわ。でも、いまだに、昨日のことが忘れられずにいましたから、あの映像を見れば、すっきりすると思います」

「まだ、昨日のことを夢に見ていたのか」

「ええ」

「そうか。そうだよな。あれだけのことをされたのだからな」

 その時、あやめは僕の胸に顔を埋めた。

「どうしたんだ」

「主様がそのようにわたしのことを思っていてくださったことが嬉しかったのです」

「私の心を見たのか」

「いいえ、そうではありません。でも、わたしのことをどう思っているのか、それを知りたい誘惑には負けました」

「お前は美しい」と僕は言った。

「はい。その言葉の意味がよくわかりました」

 僕はあやめを抱いた。

「もう、私の心を勝手に読むなよ」と言ったら「はい」と応えた。しかし、女の「はい」と言う言葉はいかにも怪しかった。

 

 時を動かし離れに戻り、畳に寝転んでいた僕をきくが起こした。まだ、夜は明けてなかった。

「寝室でお休みください」

「そうだな」

「はい」

「つい、眠ってしまった」

「仕方がありませんわ。昨日は大変だったんですもの」

 僕は頷いた。

「もう一眠りしてくる」

 そう言うと、寝室に入り、ききょうの隣に横たわった。

 目を閉じるとすぐに眠った。

 

 朝は、ききょうにほっぺたを叩かれて起こされた。

 一度目に叩かれた時に起きたのだが、その後、何度か叩かせた。

「こいつめ」と僕は突然、起き上がって、ききょうを抱き締めた。

 ききょうは暴れて、抜け出していった。

 

 顔を洗って、離れに行った。

 風車は相変わらず布団に横たわっていた。

 僕が枕元に座ると、目を開けた。

 朝の挨拶をした後、「昨日はよく眠れましたか」と訊いた。

 すると、風車が「妙な夢を見たのです」と言った。

「どんな夢です」

「一言では言えません」

「そうですか」

「昨日、どこかに行かれましたか」と風車が訊いた。

「柳沢道場に行ってきました」と答えた。

「どうして、柳沢道場だということがわかったのですか」と訊くので、「うなされて、そう言っていたのを聞いたからです」と答えた。

「そうでしたか。で、どうされたのですか」と風車が言った。

「道場主と大人の話をしてきましたよ」と僕は言った。

「どんな話ですか」

「いろいろです」

「いろいろとは」

「いろいろは、いろいろです。ただ、治療費はちゃんとせしめてきましたよ」と僕は言った。

「いくらですか」と訊くので、僕は右手を突き出して、五本指を立てた。

「五両ですか」と風車が言った。

「風車殿の治療費は、そんなに安くはありませんよ」と僕は言った。

「では、五十両ですか」と風車が、驚いたように言った。

「五十両……」と風車は呟いた。信じられないようだった。

「とすると、あれは正夢だったのだろうか」と風車は呟いた。

「やはり夢が気になりますか」

「ええ。でも、信じられない夢なんです。鏡殿が柳沢道場の高弟六人を打ち倒したのです」と言った。

「確かに、信じられない夢ですね」

「でしょう」

「でも、五十両手にしたんだから、同じようなものでしょう」

「それはそうですが」

「五十両は、傷が癒えるまでは、私が預かっておきます」と僕は言った。

「それはそうしてください」と風車は言った。

「今朝は普通に食べられますか」

「ええ、ここでなら」と風車は言った。

「だったら、後で朝餉の膳を持ってきますね」と僕は言った。

「何から、何までありがとうございました。あれはきっと正夢だったんですね」と言った。

 僕は黙ったまま、離れを出た。

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二十六

 僕は道場内の床に座ると、襷(たすき)を借りた。着物の袖を襷にしまった。

 そして、木刀も選んだ。中が空洞のものを渡されても困るからだった。振ってみて、手にしっくりした物を選んだ。

 そして、そっと腰から二本差を取る時に、定国を握った。定国から帯磁した光が僕の右手に移ってきた。それで木刀を握ると、帯磁した光は木刀に流れ込んだ。もう、この木刀はただの木刀ではなかった。真剣で切ろうとしても、傷つけることすらできないだろう。そして、この木刀が触れたものはことごとく粉々になる。そうなるように念じた。

 僕は、足元に刀を置き、襷掛けした着物に、木刀を持って、道場の中央に進んだ。

「おぬしが言い出したことだぞ、いいんだな」と柳沢輝元は言った。

「武士に二言はない」と僕は言った、僕は武士だったっけ、と思いながら。

「これだけの人数を相手にするのだ。手加減はしない」と僕は言った。

「それはこちらもだ」と熱田が言った。

「結構だ。手加減されても困る。これから、おぬしたちを二度と刀が持てない躰にするつもりだからな」と言った。

「何だと」と熱田が言った。

「言った通りだ。二度と刀は持てなくする」と僕はもう一度言った。

「言ったな」と熱田は言った。

「言葉どおりだ。だから、手加減は無用。命だけは取らない」と僕は言った。

「こっちも手加減はしない。六対一だということを忘れているんじゃないのか」と熱田は言った。

「声が震えているぞ。六人いようと何人いようと同じだ。周りで見ている門弟たちよ。剣は人数ではないことを目に刻んでおくことだ」と言った。

「門弟に口出しをするな」

「これは余計なことだったかな。さぁ、いつでもいいぞ」

 僕は中段に木刀を構えた。その先には、熱田がいた。背後には、松原がいた。六人の位置関係が、すべて見透せていた。不思議な感覚だった。上から見ているようだった。

 静かだった。時が静止しているように感じた。

 柳沢輝元の「始めい」と言う声が、道場に響いた。それで静寂が破られた。

 最初に反応したのは、松原だった。僕の背後にいたのだから、僕の背中を打つだけだったからだ。

 松原は腰が引けているから、木刀だけが伸び切っていた。これなら、風車が勝つのは、当然だった。

 松原の木刀をかわすのは、容易かった。そして、素早く右肘を木刀で叩いた。骨が砕ける感触が木刀を伝わって来た。その隣にいた者も松原に一瞬遅れて、木刀を突き出していたが、それも簡単によけ右肘を砕いた。

 まるで、時が止まっているかのような感覚に陥った。相手がスローに見えた。

 左右の者の右肘は木刀に隠れて、直接には見えなかったが、その木刀をかわすと、目の前に肘が見えた。これも左右に木刀を振るだけだった。僕の振った木刀は誰の目にも止まらなかっただろう。

 二人の肘が砕けた感触は、木刀を伝わってはっきりと分かった。

 前の二人は、もう踏み込んでいて、木刀は僕に達しているはずだった。だが、僕はそれを右に左にと避けた。遊んでいるかのようだった。彼らとの力の差は、明らかだった。

 彼らの木刀が伸び切ると、肘が露わになった。これも左の者の肘を砕いてから、最後に熱田の肘を砕いた。

 彼らは、僕の木刀にかすることもできなかった。すべてが終わるのに、二秒とかからなかっただろう。僕の木刀がどう振るわれたかを見ることができた者はいなかっただろう。

 右肘を抱えて蹲る者、床に這う者、倒れ込む者。六人それぞれが立ってはいられなかった。

 僕は、柳沢輝元の方を見た。

 柳沢輝元は腰を引いた。信じられないものを見たという顔をしていた。

 僕は自分が定国を置いたところに戻ると、襷掛けを外した。そして、木刀を強く握ってから、定国を掴んだ。木刀に籠もっていた帯磁した光は定国に戻っていった。定国が唸った。

 僕は、襷を置き、二本差しを帯に差すと、柳沢輝元の前に歩いて行った。

 柳沢輝元は動けずにいた。

「さぁ、邪魔者はいなくなりましたから、奥でちゃんとした話をしましょう」と言った。

 柳沢輝元は反射的に頷いた。

 

 奥座敷の卓袱台の上には、二十両が載っていた。

「これだけですか」と僕は言った。

「これで不服ですか」と柳沢輝元は言った。

「不服です」と僕ははっきりと言った。

「昨日までなら、これで済んだでしょう。でも、風車殿は大怪我を負ったのですよ。一月は動けないんです、治療費も嵩むんですよ」と言った。

「なら、いくらなら」と柳沢輝元は言った。

「五十両出してもらいましょう」と僕は言った。

「五十両ですと」と柳沢輝元は言った。

「聞こえなかったのですか。だったら、百両にしましょうか」と僕は言った。

「わかりました。わかりましたよ。五十両ですね」と柳沢輝元は、傍らに置いてある手金庫から、もう三十両出して来た。

 僕は、それらを受け取ると金額を数えた。一つは包み金になっていたが、他はバラバラだったからだ。

「これでいいですね」と柳沢輝元は言った。

「いや、まだです。盗まれたと申し立てられても困るので、このお金の出処を一筆書いてもらいましょう」と言った。

「そこまでしなければならないのか」と柳沢輝元は言った。

「私は念には念を入れるたちですからね。それで、生き延びてくることができた」と言った。

「わかりましたよ」と柳沢輝元は言うと、硯を取り出し墨をすって、筆で紙に念書を書いた。

 僕は、それが書き上がると受け取って読み「これでいいですね」と柳沢輝元に念を押して、お金を巾着に入れ、念書と一緒に懐にしまった。

「わたしがこれで黙っているとお思いですか」と柳沢輝元は訊いた。

「お上に訴えるんですか。どうぞ。恥を晒すだけですよ」と僕は言った。

「鏡京介殿。あの噂は本当だったんですね」と柳沢輝元は言った。

「どの噂か分かりませんが」と訊き返すと、「黒亀藩のこと(「僕が、剣道ですか? 2」参照)です」と言った。

「ああ。どう伝わっているかは分かりませんが、二十人槍のことや氷室隆太郎殿とのことは本当ですよ」と言った。

 そして「二十人槍を相手にするのなら、六人なんて楽なもんですよ」と言った。

 

 柳沢道場を後にしたのは、昼餉時を少し過ぎていた。

 神田で、蕎麦屋を探して、つけ蕎麦を三枚食べた。

 

 両国に出たので何か買って帰ろうとしたが、羊羹ぐらいしか思いつかなかったので、それを包んでもらって、家に向かった。

 門を叩くと、きくが開けてくれた。そして、抱きついて来た。

「良かった、ご無事で」と言った。

「無事に決まっているじゃないか」

「そうは思っても、悪いことしか頭に浮かばなくて……」ときくは言った。

 きくに羊羹を渡して、「おやつに」と言った。

「はい」

「風車殿はどうしている」

「変わりありませんわ」と言ってから、僕の肩に手をかけて、「そんなにすぐに良くはなりませんよ」と言った。

「そうだよな」

「ええ。羊羹を食べながら、今日あったことを話してくださいますか」ときくが言った。

「分かった。話そう」と僕は言った。

 

 お茶を飲みながら、「そうですか。それは大変でしたね」ときくは言った。

「でも、五十両もせしめてくるなんて京介様らしいですね」と続けた。

「風車殿の怪我に比べれば、安いものだ。五十両については、私から言うから」と言った。

「わかりました」

 

 その後で離れに行った。風車の顔の腫れは、当然のことだが、まだひいてはいなかった。心の中で、敵は取ってきましたよ、と言った。

 

小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十五

 朝餉を済ませると、身支度をした。

 余所行きの着物を着た。こんなときに着るとは、思わなかった。

 奥座敷に行き、床の間から定国を手にすると、本差と脇差を帯に差した。

 玄関の土間に行くと、上がり口から、草履を履いた。

 きくが「ご武運を」と言って、どこで知ったのか、火打ち石を打った。

「行ってくる」と僕は言った。

 きくが、素直に送り出したのは、内心は止めたかったかも知れないが、どうせ止めても僕が行くことが分かっていたからだ。それなら、心置きなく、送り出そうとしたのだった。

 僕はきくの心を受け止めていた。

 

 柳沢道場に行き着くには、昨日見た風車の映像が頼りだった。

 現在の神田ならともかく、江戸時代の神田は見知らぬ町だった。

 映像を頼りに歩いて行った。

 そして、ついに柳沢道場を見付けた。表札には、柳沢輝元と書かれていた。彼が道場主なのだろう。

 門は開いていたので、中に入った。

 家老の道場にいた時を思い出した。

 道場の中から稽古の音がしていた。

 僕が玄関に立つと、門弟の一人が声をかけてきた。

「どちら様ですか」

「鏡京介と申す」と言った。

「何か御用ですか」

「道場主に取り次いでもらいたい」と言った。

 その門弟はハッとした顔をした。

「ちょっとお待ちください」と言って、道場内に入っていった。

 そのうちに、 師範代らしき男がやってきた。風車の映像の中にはっきりと写っていた。

「何用かな」と、その師範代らしき男が言った。

「私は鏡京介と申す。おぬしは」と訊いた。

 師範代らしき男が「熱田竜之介と申す」と答えた。

「ほう、名前だけは、強そうですな」と僕は言った。

「何用かと、訊いているんですがね」と熱田は言った。

「それは道場主と話します」と僕は言った。

「道場主に話される前に、わたしに話してください」と熱田は言った。

「おぬしに話す事柄ではありません」と僕は言った。

「であれば、お帰りください」

「道場主はいないのですか」

「そういうことではありません」

「ただ、帰るわけにはいきません」

「何ですと」

「だから、それを道場主に話に来たのです」

「会わせられないと言っているでしょう」と熱田は言った。

「それでいいのですか」と僕が言うと、「どういうことです」と熱田は訊いてきた。

「昨日の件です。昨日の件で来ました」と答えた。

「昨日の件ですと」と熱田は言った。

「そうですよ、忘れたとは言わせませんよ」と僕は言った。

 熱田の周りにあの五人が集まってきた。

「何か揉めているのか」と一人が言った。

「こやつが、昨日のことを持ち出しているのだ」と熱田はその者に説明した。

「こやつではない。私は鏡京介だ」と僕は言った。

 その者は、「鏡京介」と言った後、「あの鏡京介なのか」と言った。

「あのとは何を言っているのかは知らないが、私は鏡京介だ。風車大五郎は私の友人だ」と言った。

「仕返しに来たのか」とそいつが言った。

「仕返し。このご時世にそんな野暮なことはしに来ませんよ。ただ、道場主と話をして、けりをつけたいだけです」と言った。

「だから、それはできないと言っているでしょう」と熱田は言った。

「ほう、それなら看板をもらって行きましょう。そして、この道場は閉めてもらう」と僕は言った。

「何だと」と熱田は言った。

「昨日、風車が来たでしょう。その続きをするだけです」と僕は言った。

「どうしたんだ」と奥から、柳沢輝元が出て来た。

 すると熱田が「先生は奥にいてください」と言った。

 僕が「ちょうどいい。あなたに話があったんですよ」と言った。

「わしに」と柳沢輝元が言った。

「そうです」と僕は言った。

「こいつの言うことは聞かないでいいです」と熱田は言った。

「そんなことをおぬしの判断で言っていいのか」と僕は言った。

「今、ここの看板を外して、道場を閉めてもらうことを話していたんですよ」と続けた。

「何だと」と柳沢輝元は言った。

「そうでしょう。私の話を聞かないと言うからですよ」と僕は言った。

「何を話そうと言うのだ」と柳沢輝元は言った。

「この道場がこれからやっていけるか、どうかです」と僕は言った。

「おぬしは道場破りか」と柳沢輝元は訊いた。

「いいえ。でも、その方がましかも知れません」と答えた。

「どういうつもりだ」

「昨日、風車大五郎という者がこの道場に来て、道場主と一手手合わせを願いたいと言った。すると、袋だたきにされて返された。そのことについて、話がしたいのです」と僕は言った。

「そんなことがあったのか」と柳沢輝元が熱田に訊いた。

「はい。でもそれは相手が悪いのです。金目当ての道場破りは見え見えでしたから」と答えた。

「道場破りに来たと言うのなら、それなりの覚悟があってのことでしょう。それをとやかく言われるのは、不愉快ですな」と柳沢輝元は言った。

「おっしゃられることは分かります。しかし、あそこまで、することはなかったでしょう」と僕は言った。

「だから、それは覚悟の上じゃないかと言っているんだ」と熱田は言った。

「分かりました。その覚悟の上で、今日は話し合いに来ました。話ができなければ、看板は下ろさせてもらいます」と僕は言った。

「無茶苦茶だ」と熱田は言った。

「そう。風車大五郎を無茶苦茶にしてくれたのは、お前だからな」と僕は言った。

「話し合いをしたいと言うのは、わかりました。でも、それには条件がある」と柳沢輝元は言った。

「どこの馬の骨とも分からぬ者と話すことはない。おぬしが鏡京介だというのなら、それを証明してもらいましょう」と柳沢輝元は言った。

 僕は内心で喜んだ。ようやく、こちらの筋書きに乗ってきた。

「いいでしょう」と僕は言った。

「で、どうすればいいのですか」と続けた。

「うちの者と試合をしてもらいましょう。それを見てから、話をするというのでは、どうですか」と柳沢輝元は言った。

「いいですね。異存はありません」と僕は言った。

「さて、誰と戦わせようか」と柳沢輝元は六人を見廻した。

「松原は弱いですから、やめておいた方がいいですよ」と言った。

「何故、俺の名を知っている」と松原は言った。

「風車殿に負けたでしょう」と僕は言った。

「風車から聞いたのか」

「いいえ、彼は今は口もきけません。ただ、見れば分かりますよ」と僕は言った。

「なら、熱田、お前が相手をしてやれ」と言った。

 熱田は「はい」と答えた。

 僕は「それでは不服です」とすぐに答えた。

「熱田は、師範代だぞ。それで不服と申すか」と柳沢輝元は言った。

「はい」と僕は答えた。

「では、どうせよと言うのだ。わしと戦えと言うのか」と柳沢輝元は言った。

 熱田はすぐに「先生に戦わせはしません」と言った。

「私も年寄りと戦って勝っても何にもなりませんから、願い下げです」と僕は言った。

「何だと」と柳沢輝元もさすがに怒った。

「それでは、足りないんですよ」と僕は言った。

「足りないだと」と熱田は言った。

「そう。そなたの力量では私を倒せない」と僕ははっきり言った。

「何だと」と熱田も怒った。

 相手が熱くなればなるほど良かった。引くに引けなくなるからだった。

 僕は右手を伸ばして、「熱田と松原はもとより、お前とお前とお前とお前だ」とその他の四人を指さした。

 柳沢道場の六人衆を一度に指名したのだった。

「その六人と戦いましょう。それでこそ、釣り合いが取れるというものです」と僕は言った。

 柳沢輝元は驚いていた。指名された六人も同様だった。