小説「真理の微笑 真理子編」

五-1
 家に戻ると真理子は夫の写真を並べることから始めた。明日持って行かなければならないからだ。
 こうして写真を見ていると、以前はよく撮っていたが、最近、あまり撮っていないことがわかった。どうせ形成するのなら、少し若い頃の富岡になればいい、と心のどこかで思っていた。
 それにしても以前はよく撮っていたんだな、と思う。その頃の富岡を思い出すと真理子は涙が出てきた。わたしだけを愛していてくれた富岡がそこに写っているのだ。
 真理子は十年ほど前の富岡の写真の中から、正面、右サイド、左サイドを向いている富岡の写真を見つけ出してきて、それをアルバムから剥がした。

 午前九時に三階のナースステーションに行った。そこにいた看護師に昨日の話をして、封筒と切り取って記入してきた用紙を差し出した。
「ちょっとお待ちくださいね」と看護師は言って、中程にあるデスクのパソコンのキーボードを叩いた。しばらくして、探していたものが見つかったのだろう。
 看護師はこちらにやってきて「富岡修さんですね」と確認した。
「はい」と真理子が答えると、「今日、お持ち頂いた封筒の写真と形成治療承諾書は確かに受け取りました」と言った。
「わたしはどうすればいいのでしょうか」
「今日のところはもう何もありませんから、お帰り頂いて構いません」
「夫の容態はどうなんでしょうか」
「今はICUにいます。それ以上、お答えできません。何かあればご自宅に連絡が行きます。それまでお待ちください」
「そうですか」
 真理子はそれ以上ナースステーションの前にいる理由を失ったので離れた。

 家に戻り、しばらくすると、電話がかかってきた。
 慌てて受話器を取った。
 茅野の警察署からだった。声は、いつかの中年の警察官のようだった。
「一応、現場検証も終わり、車体も調べましたが、何しろ損傷が激しいので、これといった原因はわかりませんでした。車体は科捜研の方に回しましたが、あっちも忙しいですから、事故車両の検分は後回しになるでしょう。自殺でないとすれば、ご主人の運転ミスによるものでしょうな。ブレーキ痕がなかったのは、急にカーブを見て、ブレーキとアクセルを踏み間違えた可能性が考えられますな。とにかく単独の事故として処理をすることになるでしょう」
「そうですか、わかりました」
 真理子はホッとした。
「事故証明書については、保険に入られていれば、その担当者が処理してくれるはずです。ところでご主人はどうされましたか。あのまま茅野の病院にいますか」
「いいえ、転院して今は東京の大学付属病院にいます」
「そうですか。良くなるといいですね」
「ええ、そう願っています」
「用件はこれだけです。では失礼しました」
 電話を切ると、真理子は気が晴れた思いがした。科捜研に回すと言っていたが、どうせ大した事実は見つかるはずがないと思った。
 だが、問題は残っている。
 富岡が生きているということだった。富岡が目覚めれば、ブレーキのことを思い出すかも知れなかった。ブレーキが利かなかったことを話せば、警察だって放っておくはずがない。もう一度、車を詳しく調べるだろう。そうすれば真理子が施した細工が見つからないとは限らない。
 富岡の存在が最大の問題だった。
 しかし、それを今考えていてもしょうがなかった。

 受話器を置いた電話を見ると、赤いランプが頻繁に点滅している。それは留守番電話が入っているということを意味していた。
 電話機の小さな表示板を見た。留守番電話が二十数件も入っているのがわかった。留守番電話を聞くボタンを押し、近くのソファに座った。
「お早うございます。高木です。富岡社長のお宅ですか。社長の姿が見られないので困っています。ご連絡、お待ちしています」
「お早うございます。高木です。富岡社長のお宅ですか。社長、お見えにならないので心配しています。早く、会社に来られるようにお願いします」
「お早うございます。高木です。富岡社長、ご連絡をお待ちしています」
 このような電話が延々と続いて入っていた。
 時計を見上げた。お昼を過ぎた頃だった。今は昼食中だろう。
 午後一時まで待った。そして、受話器を取り上げた。会社に電話をした。
 受付が出た。
「トミーソフト株式会社です。ご用件を承ります」
 真理子はすぐさま「富岡真理子といいます。高木専務をお願いします」と言った。
「富岡真理子様ですね。高木にお繋ぎしますので、しばらくお待ちください」
 しばらく待つまでもなかった。すぐに「真理子さんですか」という高木の声が聞こえてきた。
「もう何度、電話したか知れないくらいです」
「ええ、お昼頃に気付きました」
「月曜日になって、十時過ぎても社長がお見えにならないので電話を差し上げました。いつもの社長ならもうとっくにいらっしゃっているのに、と思いまして」
「ええ。そうですわね」
「それが午後になってもお見えにならないし、こちらには何の連絡もないので、何度もお電話しました」
「申し訳ありません。今まで会社のことをすっかり忘れていたものですから」
「何かあったんですか」
「ええ、富岡が事故を起こしまして、昨日まで茅野の病院にいたのですが……」と言いかけて、話が込み入っているから長くなりそうだと思った真理子は「これから、会社に行きますのでその時に詳しく、お話します」と言った。
 それでも事故と聞いた高木は「社長が事故に遭われたのですか」と言ってきた。
「ええ。そうです」
「そうでしたか。それは大変でしたね。それで連絡がつかなかったんですね」
「申し訳ありません。月曜日の段階で、会社のことを思い出すべきでした。しかし、わたしも気が動転していて、そこまで気が回らず、今日まで……、もう木曜日ですよね、留守電に入っている高木専務からの伝言を聞くまで、全く忘れていました」
「いや、こちらもようやく連絡がつき、ホッとしているんですが、社長の容態はどうなんでしょうか。お見舞いに行った方がいいかと思いますが、何処に入院されているんでしょうか」
「済みません。今はお見舞いに来ていただくことは遠慮します。詳しいことはそちらに行ってお話します」
「わかりました。ではお待ちしています」
 受話器を置くと、真理子はソファから立ち上がった。

小説「真理の微笑 真理子編」


 翌日、富岡の病院移送の件は、二日後に決まった。都内のとある大学付属病院が転院を許可したのだった。
 そして、その二日後になった。富岡の容態が安定していたので、すぐに転院の準備が始まった。
 真理子は、茅野の病院で会計を済ませると、富岡を乗せた救急車の後を真っ赤なポルシェで付いていった。
 赤灯を回して、サイレンを鳴らしながら、他の車を追い抜いていく救急車の後ろを付いていくのは、交通法規の上で許されなかった。何とか、救急車に追いつこうとしたが、交差点がある度に離されていった。最後は、そのサイレンの音も聞こえなくなった。
 二時間半ほどかかりその大学病院に着いた。車を駐車場に止め、病院の玄関を入ると、総合受付と書かれた所に向かった。対応に出た女性に、今日茅野から転院してきた富岡が何処に運ばれたのかを尋ねた。女性は、「ちょっとお待ちください」と言って、院内受話器を取って、どこかに電話した。しばらくして、彼女が受話器を置くと、真理子に向かって、「三階のICUに運ばれたそうです。右手にエスカレーターがありますから、それで三階に行けば、すぐナースステーションがありますので、そこでお訊きください」と言った。
 やはりICUに運ばれたのだった。茅野の病院とは違って、全体的に騒々しかった。いつも誰かが出入りしているような状態だった。
 真理子は右手のエスカレーターで二階に上がり、それからもう一度エスカレーターに乗って三階に着いた。
 ナースステーションはあいにく誰もいなかった。所在なく立っていると後ろから看護師が声をかけてきた。
「どなたをお探しですか」
「あのう、今、主人がここに運ばれてきたはずなのですが、どうしていいのかわからないものですから……」
 彼女は「ちょっとお待ちになってくださいね」と言って、ナースステーションの中に入っていった。そして、しばらくして出てきた。
「茅野の病院から転院されてきた富岡修さんの奥様ですか」
「はい」
「それでは転院の手続きをしますので、こちらに来てください」
 その看護師はナースステーションの前に真理子を案内した。
 そして、いくつかの書類を取り出して、「こちらに住所、氏名などを記入してください」と言ってナースステーションの中に入っていった。
 記入する書類は四種類あった。
 それらに記入をすると「これでいいですか」と真理子は、ナースステーションの中の看護師に呼びかけた。彼女はそれを受け取ると、記入箇所を確認した後、「保険証をお持ちですか」と尋ねた。
「持っています」
「では出してください。コピーをとりますので」
 真理子の手から保険証を受け取ると、コピー機でコピーをとり、すぐにそれを真理子に返した。
「わたしはどうしたらいいのでしょう」
「今、医師が容態を確認しているところなので、少しお待ち頂けますか。終わりましたら、お呼びします」
 真理子は近くの長椅子に腰掛けた。それから二時間近くも待たされた。
 やっと「富岡さん」と呼ぶ声がした。そっちを向くと看護師がこちらにどうぞと言って、診察室のような所に案内した。
 中には四十歳半ばほどの医師がいた。
「富岡修さんの奥さんですね」
「そうです」
「真理子さんですね」
「はい」
「わたしは、主治医の中川です。ご主人の容態について説明します。いいですね」
「わかりました」
「ご主人は茅野の病院から、今日、転院されてきました。茅野の病院での処置が良かったのでしょう。通常、あそこまで重度の熱傷を広範囲に負うと危ないのですが、今は安定しています。今の状態が急変しない限り、命に別状はないでしょう。問題は、顔です。ひどく損傷しています。このままでは普通には見られない顔になってしまいます。そこでもう少し容態が安定したら、すぐに顔を形成することが必要になります。しかし、今のご主人は鼻も顎も砕けて、元の形状を留めていません。ですから、顔を形成する時に参考になる写真が必要なのです。その写真を元に立体図を書き起こし、顔を形成していくことになります。それには元になる写真が数枚必要です。できれば正面からのと左右からの三枚の写真があればいいのですが、ご用意できますか」
「できる限り探してみます」
「形成に関してはまた書類を書いてもらうことになります。こう言っては自信がないように聞こえるかも知れませんが、過度な期待はしないでください。私たちは芸術家と違って、自由に粘土で顔を形成するようなことはできないのです。思うような顔に形成できるかは、やってみなければわかりません。しかし、やらなければ到底、人前に出られるような顔にはなりません。形成はするしかないのですが、期待したような顔になる保証はないということです。これについては書類をよくお読みになってください。そして納得がいったらサインしてください。しつこいようですが、期待通りの顔になる可能性は非常に低いと思ってください。病院と患者、そしてその家族とのトラブルの多いケースの一つなので、その点をご理解ください」
「わかりました」
「書類と写真については、看護師から説明がありますから、ここでお待ちになっていてください。私はこれで失礼します」
 真理子は出ていく医師に頭を下げた。
 医師が出ていくと間もなく看護師が入ってきて、ナースステーションの方に案内した。
 その窓口で、少し大きめの封筒を渡され、これに正面、右、左の写った写真を入れてきてくださいと言った。
 真理子は正面はともかく、右、左の写真が都合よく見つかるとは思えないと訴えた。すると看護師は、「正面でなく別の角度からの写真であればいいのです。とにかく、立体図を作れそうな写真があれば入れてきてください」と言った。そして「三枚でなくて、何枚でもいいですよ」とも付け加えた。
「ただ、複数の人が写っている場合には、誰が富岡修さんなのか、印をつけてくれると助かります」と言った。
「それからこれが形成に関する書類ですが……」と言って、冊子のようになっている書類を渡した。それには顔の各部位についての詳細な説明が記されていた。看護師は「富岡さんの場合は、この冊子すべての項目が該当します」と言った。
「よくお読みになってください。写真はなるべく早い方がいいのですが、いつお持ちになりますか」
「今日、これから家に帰って探します。ですから、早い方が良いと言うのであれば、今日中にも見つけ出して持ってきますが」
「それなら明日で結構です。明日、写真とこの冊子の最後のページの記入欄に必要事項を記入して、切り取ってお持ちください」
「これを持ってくるのはこちらでいいのでしょうか」
「ええ、構いません。九時からスタッフがいますから、誰かに渡してください」
「夫には会えるのでしょうか」
「今は無理です」
「そうですか。また明日来ます」
 真理子はそう言ってナースステーションの前から離れた。

 

小説「真理の微笑 真理子編」


 ホテルの部屋に入ると、病院に電話をして部屋番号を伝えた。これで富岡に何かがあれば連絡が来るだろう。
 疲れがどっと押し寄せてきた。このままベッドに倒れ込みたくなったが、そうすれば起き上がることは難しそうだった。
 着替えなどを詰めてきた旅行鞄をクローゼットにしまい、ハンドバッグはサイドテーブルに置いた。服を脱ぎ、これもクローゼットのハンガーに吊るした。
 ブラジャーとパンティをとるとシャワーを浴びた。頭から疲れが流れ出していくようだった。
 あの手の結婚指輪を見た時、計画が失敗したことを悟った。しかし、心のどこかで病院からの、夫の容態の急変を知らせる電話が来ることも期待していた。
 バスルームから出るとバスローブを羽織り、髪を拭いた。
 そこまでするのがやっとだった。
 躰をベッドに横たえると、睡魔が襲ってきた。

 目が覚めると午後三時を過ぎた頃だった。ホテルに入ったのが午前八時前だったから、七時間ほど眠っていたことになる。
 まだ今日の出来事だったが、病院から電話があってからの数時間があっという間のようだった。中央自動車道を高速で走らせていた気分から抜け出し切れてはいなかった。
 シャワーを浴びて、旅行鞄から出した新しい服を着ると、ハンガーに掛けてあった服はクリーニングに出した。今日のクリーニングの受付は終わっているので、明日の朝、クリーニングし、夕方には仕上がっていると答えたので、それでいいと言った。
 道路を隔てた向かいが病院だったので、ポルシェには乗らずに歩いて病院に向かった。
 三階のICUに向かうと看護師に、富岡の容態を訊いた。帰ってきた答えは昨日と同じだった。そこのソファに座っていると、一人の医師が声をかけてきた。彼に案内されて、事務室のような殺風景な一室に入った。細長い机と椅子があるだけだった。
 奥の椅子に、医師は腰掛けると、机を挟んだ反対側の椅子を、真理子に勧めた。真理子はその椅子に座った。
 医師が口火を切った。
「当面は容態の安定を待つしかありません。今は危険な状態なので、注意して見守っているしかありません。この先のことですが、ご主人は全身火傷は免れましたが、上半身に重度の火傷を負っていて危険な状態です。今は適度な管理の下で火傷の箇所を冷やしている状態です。専門用語は使いたくないのですが、上半身の大半はⅢ度熱傷の状態です。しかも、火傷の範囲が広いので、全部を自然治癒に任せるわけにもいきません。どうしても皮膚移植が必要になりますが、ここの病院ではこれほど広範囲のかつ重度の熱傷には、対応しきれません。それともう一つ問題があります。それは顔です。顔面がフロントガラスに突っ込んだせいでほとんど元の形状を留めないほどに、複雑に骨折しています。これを形成する技術は当院にはありません。そこで、容態が安定してきたら転院を勧めます。と言うより、それ以外の方法がありません」
「そんなにひどいのですか」
「ええ。隠していても仕方ありませんが、はっきり言って、助かったのが奇蹟なくらいです。いえ、まだ助かったと申し上げるのは尚早かも知れません。重篤な状態であることには変わりはありませんから。しかし、うちの病院ではこれ以上の治療はできません。だから、転院を勧めているのです」
「転院先は紹介してもらえるんでしょうか」
「それは今やっています。こちらの患者の状態を詳しく説明して、それでも受け入れてくれる病院といったら日本にそう幾つもないでしょう。今、その一つに打診しているところです。いい返事がきたら、知らせます。そして、ご主人が移送に堪えられるようであれば、その機会を見計らって移送することになります」
「わかりました、お任せします。どうぞ、よろしくお願いします」
 会話はこれで終わった。ICUの外側から、富岡らしい男の横たわるベッドを眺めて、ナースステーションに寄ってから病院を出た。ナースステーションでは、新しい情報は得られなかった。

 ホテルに戻った。
 部屋は掃除され、シーツは新しいものに取り替えられていた。そこに、ハイヒールを脱いで、そのまま横たわった。
 この先どうなるのだろう、と思った。
 富岡は今は意識不明の重体だ。しかし、そのうち、治るだろう。悪運の強い富岡のことだ。治るに違いないと思った。
 その時、ブレーキのことを思い出すだろうか。
 仮に思い出したとしても、車の故障と思うだろう。
 そのあたりのことが頭の中で揺れていた。
 その時に電話が鳴った。受話器を取るとフロントが出て、「外線からお電話が入っているのでお繋ぎします」と言って切り替わった。
 電話は警察からだった。
 今朝会った中年の警察官のようだった。
「現場検証が先程終わったようです。よろしかったら、そちらに出向きますがどうでしょうか」
「疲れているので、電話で済むことなら、そうして頂けませんか」
「わかりました。端的にお聞きします。ご主人は、自殺されるようなお方ですか」
 真理子は警察官の言っている意味がわからなかった。
「どういうことですの」
「あのですねぇ、現場検証した者からの報告によると、現場の道路にブレーキ痕がなかったということなんですわ」
「…………」
「普通、カーブや急な坂道にさしかかればブレーキを踏みますよね。特に事故に至るような時には、おそらくスピードを出しすぎていたことも多く、カーブにさしかかるとブレーキを踏むんですよ。それが道路に痕跡として残るもんなんですが、今回の事故の場合、それが見当たらないと言うんですよ」
「…………」
「ご主人がお酒を飲んでいなかったことは、体内からアルコールが検出されなかったことを医者から聞いてわかっているんです。ということは、下りのカーブに差し掛かったのにもかかわらず、しかもアルコールで酔っ払っていなかったにもかかわらず、ブレーキを踏まなかったことになる。よそ見をしていなかったと断言できる訳ではありませんが、あれだけカーブがある坂道ですよ。よそ見をする余裕なんかないでしょう。しかも夜間ですよ。とすれば、自殺を試みたと考える他はないんですよ」
「主人は自殺するような人じゃありません」
 真理子はそう言ったが、すぐに『そう言えば、悩んでいたような様子はありましたが、主人は自殺するような人ではありません』と言えば良かったと思った。
「そうですか。となればブレーキか何かの故障だったんですかね」
 警察官が、ブレーキの故障と言った時は、真理子の心臓は飛び出しそうなほどドキッとした。
「とにかく、明日、車体を引き上げるんでそれで原因もわかるでしょう」
 真理子は落ち着かなくなった。ブレーキの細工には自信があった。あれを故意にした細工だと見破るのは、よほどの技量をもった者でないとわからないはずだった。
 しかし、ブレーキ痕が全く無いというのは、想定外だった。ブレーキ痕は付くが完全にはブレーキが利かずに車が転落するというのが、想定していたことだったからだ。
 どうしてそうなったかは真理子にはわからなかった。しかし、事故車については、警察でも調べるが、その自動車を製造した所でも調べる。事故の原因が車にあるとすれば、それを究明しなければならないからだ。
 真理子は自分の細工に自信を持つしかなかった。
 躰は疲れているのに、不安が頭を冴えさせていた。

小説「真理の微笑 真理子編」

二-2

「夫は事故に遭ったのは不運でしたが、その中でも運が良かったということでしょうか」
「ええ、昨夜のような事故が起これば、一応はパトカーや救急車、消防車が出動しますが、怪我人が路上に倒れている場合なら助けることも可能ですが、崖下に落ちている場合は、普通は翌日の捜索ということになるのです。ところが、今回の場合には、たまたま木に引っかかっているご主人をすぐに見つけたのと、その木の位置が救助するのにそれほど難しい場所ではなかったという偶然に救われたのです」
「そうでしたか」
「ご主人は救えたのですが、身元を示すものが焼けてしまっていて、最初は誰だかわからなかったのです。しかし、ナンバープレートから所有者がわかったものですから、病院に伝えたのです。その後で、お宅に電話をしました」
「ええ。夫の容態が気がかりだったものですから、急いでこちらに向かいました」
「そうでしょうね、事故については、現場検証が九時ぐらいから始まります。もう警察の者が現場に向かっているところです」
「事故現場は蓼科の山奥なのでしょうか」
「ええ、山奥と言っても、ここからなら二時間か二時間半ぐらいの所です。もっともパトカーで向かうとしたらの話です。山はカーブが多く速度制限があるので、乗用車で行くとしたら、もっとかかるでしょう」
「そうですか」
「お訊きしたいことが一つあるのですが」
「何でしょうか」
「お車に乗っていたのは、ご主人なんですよね」
「ええ」
「別の人に車を貸していたというようなことはないでしょうね」
「ありません。どうしてそんなことを訊くのですか」
「さっきも話したように、身元を確認できるようなものがなかったからです。財布や免許証は持っていたでしょうが、おそらく事故の際に焼けてしまったのではないかと思いまして……」
「…………」
「何しろ、本人を確認するものを本人が所持していなかったのです」
 その時に看護師がやってきた。
「主人はどうなんですか」
 真理子はソファから立ち上がって訊いた。
 看護師は「相変わらずです。まだ、危険な状態であることには変わりありません」と言った。変に家族に希望を持たせて、後でクレームをつけられるのを恐れているかのようにも見えた。
 中年の警察官が、「これを見てもらえませんか」と言った。それは焼けただれた人の手だった。真理子はすぐに顔を背けた。
「何ですの、それ」
「これはご主人の左手です」と警察官は言った。
「お医者さんから説明がありませんでしたか」
「何がですか」
「顔のことです」
「顔?」
「ええ」
「いいえ」
「そうなんですか」
「それがどうかしたんですか」
「いや、なに……」
 警察官は、しまったとでも思っていたのだろう。しかし、言い始めてしまったものだから、途中で止めるのもおかしな話だった。仕方なく続けた。
「ナンバープレートから車の所有者はわかったのです。それと同時に免許証も照会しました。免許証には顔写真が載っていますよね」
「ええ」
「それで本人かどうか確認しようとしたのです」
「…………」
「しかし、事故が事故なものですから、顔からは本人かどうか判別がつかなかったのです」
「主人の顔は傷付いているんですか」
 真理子は少し大きな声で言った。
「ええ、詳しいことは私たちもわからないのですが、顔から本人だということが確認できなかったのです」
「そんな……」
「それでですね。現場に駆けつけたパトカーの警官が現場の写真を撮ったのです。これは現場の状況を保全するためです。そのうちの一枚がこの手の写真なのです」
 そう言って、警察官は、もう一度、写真を真理子の方に差し出した。やはり焼けただれた左手だった。しかし、よく見ると薬指に指輪をしているのがわかった。
 警察官が「薬指に指輪をしているでしょう」と言ったので、真理子は頷いた。
「これがその指輪の拡大写真です」と言って、警察官はもう一枚の写真を見せた。
 そこには結婚指輪が鮮明に写っていた。それは富岡がいつもしているものだった。真理子が見間違うはずはなかった。
「主人です」
 真理子はそうはっきりと言った。
「この結婚指輪は、いつも主人がはめているものです」
「そうですか。それを確認したかったのです。ご協力、ありがとうございました」
 警察官はそう言うと、取りだした写真をバッグにしまった。
「わたしはもういいのですか」
「ええ。事故に遭われた方が富岡修さんだと確認できましたから、もう用件は済みました。ご主人の回復を願っています」
 用事が済むと、警察官はさっさとその場を立ち去っていった。
 警察官がいなくなると真理子は所在がなくなった。
 通りがかった看護師に「わたしはどうしたらいいのでしょう」と訊いた。
 その看護師は「さぁ」と首を傾げてから、「ちょっとお待ちください」と言って、ナースステーションの方に向かった。しばらくして、その看護師が出てくると「今は特に奥様にお伝えすることはありません」と言った。
「ではわたしはどうしたらいいのですか」
 彼女は少し考えてから、「昨夜から眠られてはいないんですよね」と言った。
「電話がかかってくるまでは眠っていました。でも、それからは眠ってはいません」
「では、近くのホテルでお休みになった方がいいですね。ご主人の容態は今は安定していますが、いつ急変するともわかりませんから、近くにいて頂く方がいいですね」
「どこか近くのホテルを紹介してもらえますか」
 そう言うと、看護師は「ちょっとこちらに来てください」と言って廊下を曲がった所から見える、道路を挟んだ隣の建物を指さした。
「あのホテルならどうでしょう」
「わかりました。あそこに泊まることにします」
「部屋番号などがわかりましたら、こちらにお電話頂けますか。もし、急な用ができたらご連絡できるでしょうから」
「わかりました」
「では、失礼します」
 看護師が離れていくと、真理子はもう一度ICUの病室の前に立ち、それからきびすを返した。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

二-1
「じゃあ、行ってくる」
 富岡はいつものように片手を振り、車を出した。これから蓼科の別荘に向かうのだ。
「あなた、気をつけて」
 真理子の声は上ずっていた。
 もうこれで運命は変えられない。
 走り出した車を見送って真理子は思った、これでいいんだわ! と。
 家の中に入る。何だか、気持ちが落ち着かない。
 そわそわする感じから抜け出せないのだ。
 真っ赤なポルシェに向かった。車を出すためではない。煙草を取りに行ったのだった。夫の前では決して吸わなかったが、今は煙草を吸いたくてしょうがなかった。
 火をつけ、一服吸い込む。そうすると気分が少し落ち着いてきた。

 病院から電話がかかってきたのは、日を越えた午前三時少し前頃だったろうか。
「富岡修さんのお宅ですか」と女性の声がした。
「はい、そうですが」
「奥様でいらしゃいますか」
「はい、そうです」
「ご主人が事故に遭われて、今病院で手当をしています。大変危険な状態です」
 そう言った後、少し間を置き、持ってくるのに必要なものを言い、「こんな時間ですが、来られますか」と尋ねた。
「車がありますから、行けます」
「運転なさるのはあなたですよね」
「はい」
「夜間ですから、十分注意して下さい。こちらの病院の場所はわかりますか」
「いいえ、わかりません」
「そうですよね。ファックスがありますか」
「この電話と一緒になっています」
「では、一度電話を切ってください。こちらから案内地図を送信しますから」
「わかりました」
 受話器を置いてしばらく待つとファックスが送信されてきた。感熱用紙に案内地図が印刷されていた。
 再び、電話が鳴った。
「届きましたか」
「ええ」
「わかりますか」
「ええ」
「それでは、お待ちしています。くれぐれも運転に気をつけてください」
 受話器を置いた真理子は、気を落ち着かせようと、昼間持ってきた煙草に火をつけた。
 煙草を吸うと少しは元気が出た。
 今の電話は真理子の期待を裏切るものだった。富岡の死を告げる電話が警察署から来るものと思っていたからだ。
 看護師と思われる女性の話では、大変危険な状態にあると言っていたが、一刻を争うような状態には聞こえなかった。
 電話は茅野の病院からだった。ここが東京だとわかっていたはずだから、これから行くにしても、よほど飛ばせば二時間でも着くかも知れないが、普通に考えれば早くても車で三時間程度はかかるだろう。
 病院から電話がかかってきたということは、計画は失敗したことになる。
 富岡は大怪我は負ったが、助かる可能性があるのだ。
 看護師は真理子が動転しないように、注意して話していたが、煙草を吸い、気持ちが落ち着くと、むしろ醒めた感じになっていった。
 その時、また電話がかかってきた。
「こちらは茅野警察署ですが、富岡さんのお宅でしょうか」
「そうです」
「ご主人が事故に遭われまして……」と言い出したので、真理子はその言葉を遮るように「さきほど、病院から電話がありました。それで今から病院に向かおうと思っているところです」と言った。
「そうですか、それなら詳しい事情は病院でお話しすることにします」
「そうして頂けますか。とにかく、今は急いでいるものですから」
「わかりました」
 それで電話は切れた。
 警察からも電話がきたので、初めは警戒する気持ちが生じたが、病院の電話の方が早かったので気持ちはすぐに切り替えられた。今は早く病院に行き、富岡の容態を確認するのが先決だった。
 取りあえず必要なものを荷造りして、保険証をハンドバッグに入れると、赤いポルシェに向かった。途中で、家の鍵を締め忘れたかも知れないと思い引き返しもした。
 車に乗ると、益々醒めてきた。

 病院に着いたのは、まだ日の出前かも知れなかったが、あたりは明るくなった午前六時過ぎ頃だった。
 警備員に案内されて夜間出入り口から、病院内に入った。
 夜間受付の窓口に向かった。そこにいた看護師に案内されて三階に上がった。
 富岡はICUにいた。
「まだ容態は安定していません。こんなことを言うのは酷ですが、いつ危篤状態になってもおかしくない状況です。と言うよりも、今が危篤状態だとも言えます。助かるかどうかは本人次第です」
 中にいた医師が出てきた。真理子は駆け寄り「どうなんですか」と尋ねた。
 医師は「私にもわかりません。本人の体力が持てば或いは助かるかも知れませんが、非常に危険な状態であることは確かです」と言ったきりだった。
 その間に、看護師がいくつかの書類を持ってきた。
「こんなときに恐縮ですが、これらの書類を読んで、サインをして頂けませんか」と言った。
 真理子は手渡された書類を眺めるだけで、署名の欄に記入するのが精一杯だった。
「保険証をお持ちですか」と訊かれたので、ハンドバッグから出して渡した。
「コピーさせて頂きますね。そうしたらすぐお返しします」と言って、事務室の方に向かった。その間に渡された書類にサインはした。看護師が戻ってくると保険証を受け取るのと同時に書類を渡した。看護師は「ありがとうございます」と言って、書類を受け取った。
 午前七時を過ぎた頃に中年の警察官がやってきた。
「失礼ですが、富岡真理子さんですか」と尋ねた。
「はい、そうです」と答えると、「事故は不幸中の幸いというか、夜中の十二時過ぎに起きたようなのですが、たまたま通りがかった車が事故を目撃していて、近くの民家からすぐ百十番の連絡が入ったんですよ。それでパトカーと救急車、消防車がすぐ出動して、車から放り出されていたご主人をたまたますぐに発見したんですよ。その時は、上半身は焼けただれていました。しかし、あのまま車に乗っていなくて幸いでした。車は我々が到着する前に爆発したそうです。本人はすぐに救助されてこの病院に搬送されてきたんです。もう少し搬送が遅ければ助かっていなかったでしょう」とここまで一気にしゃべった。

小説「真理の微笑 真理子編」

真理の微笑 真理子編


 ボンネットを閉じた。
 これで全ては終わった。後は富岡がこの車に乗って蓼科の別荘に向かえばいいだけだった。ブレーキに仕掛けた細工が、あの急カーブの坂のどこかでブレーキを利かなくさせ、その結果、車は崖下に転落するだろう。
 富岡の手帳にYの字を発見してから、随分と時間が経った気がする。
 富岡が浮気をするのは、初めてではない。楓とかいうクラブに通ってあけみという女性と遊んでいることも知っている。また、会社の秘書とできている可能性も捨てきれなかった。だが、新しく加わったYの文字には、不吉な予感のようなものを覚えた。そこに示された数字は、会う時間なのだろう。
 真理子は、自分の車ではなく、借りた車を会社近くの道路に止めて、富岡が出てくるのを待った。真理子は富岡の妻だった。髪はショートカットで、耳にはシルバーのイヤリングをしていた。細く高い鼻梁を挟んで二つの大きな瞳が、真理子の美しさを際立たせていた。
 やがて、富岡が会社から出てきて、自分の車に乗った。そして動き出す。真理子は富岡に気付かれないように尾行した。
 小一時間ほど走って、富岡の車はあるアパートの前で止まった。路上駐車すると、車から出てそのアパートの一階の端の部屋に入っていった。
 真理子は少し離れた場所に車を止めると、外国製の煙草を取り出した。普段はあまり吸わないのだが、気分がむしゃくしゃしたときなどにたまに吸うことがあった。今は時間を持て余しているから、煙草に手が伸びたのだった。
 二時間ほど経っただろうか、部屋から富岡が出てきた。中から女も出てきて、富岡の車までついてきた。富岡の車が出ると、手を振って見送った。
 真理子はその女の顔を双眼鏡で確認した。自分ほどではないにしても、美人と言える顔立ちをしていた。彼女が部屋に入るのを見届けると、車から降り、その部屋の番号と表札を確認した。斉藤由香里、それが彼女の名前だった。
 真理子は車をレンタル会社に返すと、自分の車で買物をして家に帰った。当然のことではあったが、富岡の方が先に帰っていた。
 真理子は何事もなかったかのように夕食の準備をした。

 次の日も、富岡が出かけると、真理子はカーレンタルをして由香里のアパートを見張った。カーレンタルをするのは、真理子の車が真っ赤なポルシェだったからだ。尾行するのには目立ちすぎた。
 由香里は午前中は干し物をして、午後には自転車で買い物に出かけた。夕方になると少し着飾って、やはり自転車で出かけた。つけてみると、カフェだった。そのカフェは富岡の会社のすぐ近くだった。そこで五時から九時頃まで働いているようだった。あまり正確でないのは、ずうっと由香里をつけているわけにはいかなかったからである。九時まで働いていることがわかったのは、富岡が大阪に出張した時だった。
 Yの字が書かれている日を目安に尾行して、その翌日以降は富岡が出かけると朝から貼り付いた。
 そしてある日のこと、彼女が干し物を済ませると、自転車に乗りどこかに出かけた。その後をつけてみると産婦人科医院だった。真理子も患者を装って中に入った。こぢんまりとした医院だった。受付の人に保険証を求められたので、「友人を待っているんです」と答えた。なるべく隅の方に座り、由香里が診察室に入っていくのを待った。そしてその時が来た。しばらくして、顔を輝かせて出てくる由香里を見た。真理子は由香里が妊娠したことを知った。
 由香里は医院を出ると、そのまま区役所の方に自転車を向けた。真理子は気付かれないように尾行した。そして区役所の中に入った。建物の三階に「出産・こども・教育」と書かれた場所があった。由香里はそこに行き、母子健康手帳の交付を受けた。これで由香里が富岡の子を妊娠したことがはっきりとした。
 Yの字を見つけた時から、由香里を尾行していたが、他に男の影はなかった。おそらくそれ以前もなかったのだろう。あれば、一度ぐらい、その他の男と会っている現場を目撃しているはずだったからだ。とすれば、由香里の妊娠の原因は、富岡以外には考えられない。
 真理子は目眩がする思いで区役所を出た。
 そのあと、レンタルした車を返し、自分の車で自宅まで戻ったのだが、その間の記憶がなかった。怒りで頭の中がいっぱいだったからだ。
 富岡とは十二年前に結婚した。結婚した当初は、子どもを産むのは先延ばしにして二人の生活を楽しもうと思った。それも三年、四年経つと、そろそろ子どもが欲しくなってくる。それまで避妊していたのをやめて、普通にセックスをした。今度は子どもを産みたいという欲求があったから、あえて危険日にセックスをした。しかし、子どもは授からなかった。それが二年も続くと、さすがに何かおかしいと感じるようになった。そうなるとぜがひでも真理子は子どもが欲しくなった。嫌がる夫を説得して、二人で不妊治療専門のクリニックに通った。果たして結果は、真理子は妊娠しにくい体質であることがわかり、富岡はストレスによるものなのか生来的なものなのか、精子量が低下していることがわかった。いずれにしてもミトコンドリアが低下しているということなので、それを増加・活性化させる薬を飲むことから始めた。しかし、その効果は一向に上がらなかった。そこで、人工授精も試みた。一割から一割五分の確率で妊娠するということだったが、これも三度行ったが、駄目だった。クリニックは途中で、別のクリニックに変えたりもして、都合六年間も通ったが、真理子が妊娠することはなかった。
 それなのに由香里には子どもができたのだ。それをどんな顔をして富岡に報告するのだろうか。真理子は想像したくなかった。
 その後も真理子は由香里の尾行を続けた。そして、富岡が子どもを産むことを承諾しただろうことを、由香里と富岡の表情から読み取った。
 初めは、怒りの矛先は由香里だった。だが、苛立つだけで何もできない。時間だけが過ぎていく。そのうちに、由香里の部屋から出る富岡に嬉しそうな表情を見た。その時、真理子は急に孤独を感じた。と同時に富岡に対する怒りが吹き出てきたのだった。
 そして経済的なことも頭を掠めた。このままでは、由香里に妻の座を奪われやしまいか。少なくとも会社社長である富岡の後継者が誕生しようとしているのだ。
 と同時に六年間も続けた不妊治療のことが頭を過った。由香里の妊娠は、重大な不法行為ではないか。それよりも何よりも、あの嬉しそうな富岡の表情が憎らしかった。心の中に芽生えた殺意は、止めようがなかったのだ。

 

小説「真理の微笑」

七十六
 全てが順調すぎるほど順調だった。
 九月のその日も真理子の焼くパンケーキの香りが心地良く漂ってきていた。
 赤ちゃんは私の車椅子の隣のゆりかごの中で眠っていた。
 この幸せが永遠にでも続いてくれたらいいだろうに、と私は思った。このまま私が富岡となり、そのまま時効*が成立すれば、もしかしたらそれが得られるかも知れない。そんな希望を何となく抱いていた。
 朝日が長くなり、その光は食卓にまで届いていた。薄いカーテンからこぼれる光を浴び、真理子が置いてくれていた朝刊を私は開いた。一面から順に見ていった。
 そこに、六月に甲信越で続いた長雨のために山崩れが起き、蓼科のあたりをハイキング中の男性が、山道から外れた所で、半ば白骨化した死体を発見したという記事が、小さく載っているのを、私は見つけた。そして、その記事を繰り返し読んだ。
 私は喉の渇きを覚え、コーヒーカップを掴もうとしたのだが、その手が驚くほど震えた。
 微笑みながら、「あなたぁ、焼けたわよ」という真理子の声が、もの凄く遠くから聞こえて来る気がした。

*時効……二〇一〇年四月二十七日に改正刑事訴訟法が成立し、殺人など凶悪犯罪の公訴時効の廃止が決まった。この法律は一九九五年四月二十八日まで遡って適用されるが、それ以前、つまり一九九五年四月二十七日以前の殺人など凶悪犯罪には適用されない。 
                                 了