小説「真理の微笑」

二十七
 ベッドサイドのテーブルから富岡の手帳を取り、カバーを見た。裏側には名刺を挟めるような切り込みが七段あった。しかし、そこにはクラブやバーの名刺は一枚も挟まれていなかった。
 表の方には、会員制のクラブのカードが何枚か挟まれていた。ゴルフ場のものが二枚あったが、「楓」というクラブのものはなかった。
 アドレスページをめくってみた。そこにもクラブやバーの店名も住所も電話番号もなかった。
 しかし、夕方五時以降の平日には、イニシャルと時間が記されている。その中に「A」のイニシャルはなかった。
 星印がついている日にあけみと会っていたのだろうか。いや、それは違う。星印は午後五時以降とは限らないからだ。あの街で偶然に彼を見かけた日にも星印がつけられていた。それは午後二時だった。
 北村とあけみが会っている時に富岡が割り込むのは、野暮というものだ。星印は北村と富岡が会っていた時と考えるのが妥当だろう……。
 ここで考えは行き詰まった。

 昼食の時間になった。すりつぶして成形したおかずから、柔らかめの煮物や骨が抜いてある白身魚のあんかけが出た。ご飯も軟らかめに炊いてあったが、お粥ではなくなっていた。食欲はなかったが、全部食べた。

 午前中の事が気になった。
 あけみはまた来る、と言った。北村から百万円もらえる約束をしていて、その北村が亡くなったのだから、あけみの論理では富岡に取りに来るのは当然の事なのだろう。
 こんな事で(株)TKシステムズの作ったワープロソフトが盗まれた事が悔しくてならなかったが、北村も富岡も死んでいる。あけみの話を聞けば、怒りがつのるだけだったが、その矛先を向ける相手はもうこの世にはいない。
 それよりもあけみの事をどうするかが問題だった。
 真理子に知られるわけにはいかなかった。といって、どうやって百万円もの金を工面したらいいのだろう。あけみに百万円を渡すのは悔しいが、それが一番面倒を起こさない事のように思われた。しかし、今の状態では、自分ではお金を動かす事はできない。だから、またあけみがやってきても何も解決できない。

 午後三時からのリハビリは、手足の運動と車椅子の操作はまあまあだった。だが、奥の部屋の女医による頭の体操は最低だった。見せられた絵を見て、同じように図を書く事はなんとかできたが、積み木のようなもので、一度作られた図形をまねて作る事が上手くできなかった。最もひどかったのは百から七を引く暗算が、散々だった事だ。最初の九十三はできたが、次からがおかしかった。八十六ができても七十九ができなかったりした。
 やはり、あけみの事が影響していたのだろう。
 リハビリの後のシャワー入浴で少し気持ちも落ち着いてきた。躰がさっぱりすると気分も同じように……さっぱりとするわけにいくはずもなかった。

 そんな時だった。
「お電話をお持ちしました」と言って看護師が入ってきた。黒いダイヤル式の電話だった。
「繋ぎますか」と訊くので「お願いします」と言った。
 電話機はベッドサイドのテーブルの上に置かれた。これで外部と電話連絡が取れるようになった。そう思った時には、もう受話器を取っていた。自然と高瀬であった時の自宅の電話番号をダイヤルしていた。理性はやめろと言っていたが、そうせずにはいられなかった。しかし、電話が繋がると、「あなたのおかけになった電話番号は、現在使われておりません」というナレーションが聞こえてきた。
 そうだった。夏美は祐一と実家に戻っていたのだった。今度は、夏美の実家に電話をかけた。もし、夏美以外の義父や義母などが出たら切るつもりだった。
 呼び出し音が長く感じられた。しばらくして、受話器を取る音が聞こえてきた。
「もしもし、川村です」
 夏美の声だった。川村というのは、夏美の旧姓だった。
 その声は、二ヶ月前に聞いているはずなのに、随分と昔に聞いた感じがした。
「どちら様ですか」と夏美は訊いてきた。私が何も言わなかったからだ。その声を聞いているうちに涙が溢れてきた。電話口でつい嗚咽を止める事ができなかった。
 沈黙がしばらく続いた。そのうち、夏美から「あなたなの」と言う声が聞こえてきた。
「そうだ」と言えたらどんなに楽だろうと思った。私は泣き声を押し殺していた。
「あなたなのね」と夏美は言った。私は何も言えなかった。しかし、電話の向こうの夏美は、今電話をかけているのは、私だと確信しているようだった。
「心配したのよ」
「…………」
「もし、あなただったら……、話せないのだったら……、うん、でも、ああ、でもいいから、何か言って……」
 夏美の絞り出すような声に、私は何も返事をする事ができなかった。何も言わない私に「やっぱり、あなただったのね。今は、話せないのね」と夏美は言った。
 そうだ、話したくても話せない、と答えるわけにはいかなかった。
「だったら、聞いてね」
「…………」
「会社は倒産したけれど、わたしたちは大丈夫よ。こうして実家に戻って元気に暮らしている。祐一もこっちの学校に通っているわ」
「…………」
「捜索願を出したので、警察があなたの事を捜してくれているわ」
 刑事が来たから、それは分かっていた。刑事は、富岡が高瀬である私を殺したと思っているのだろう。
「あなたが生きていてよかった」
 夏美は本当に安堵しているようだった。私から二ヶ月も連絡がないのだから、死んだものと思っていたのに違いない。
「刑事からあなたの車が茅野で見つかったと聞いたわ。どうしてそんな所から……って思ったの。だって、茅野なんて行った事もないし……」
 私は答えようもなかった。声を出さずに、夏美の声を懐かしく聞いていた。
「だから、悪い想像ばかりしてしまったの。山で遭難したのだとか……」
 山で遭難か……、と思った。その方が良かったかも知れない。
「でも、こうして電話してきてくれたんだから、生きているのよね。良かったぁ」
 夏美の声が優しく響いてきて、荒んだ心を癒やしてくれるかのようだった。
「話せないのは、何か事情があるからなのね」
「…………」
「いいわ、何も言わなくて。どんな事情があるか知らないけれど、こうして電話をかけてきてくれるだけでいい」
 そこまで夏美の声を聞いた時、病室に真理子が入ってきた。私は慌てて受話器を置いた。
 真理子が言い出す前に、「今、会社に電話しようとした」と言った。
「そう」とだけ真理子は言って窓際に立った。いつもはキスをするのに今日はしなかった。
 まだ夕食まで少し時間があった。
「何かあったのか」
 真理子は「いいえ」と言ったが、何かがあったのだと直感した。
 まさか、あけみがあの後、会社に行ったのではないだろうか、と思った。
「誰か来たのか」
「いいえ」と真理子が答えた後、「誰が来ると言うの」と訊き返してきた。
 私は答えなかった。

小説「真理の微笑」

二十六-3

「あなたの自宅は知っているから、今朝、張り込んでみたのよ」
「なるほど」と私は感心した。女は見た目より賢かったのだ。
「あなたの奥さん、赤いポルシェに乗っているでしょ。目立つからわかるの」
 そうか、真理子は高級外車に乗っているのか。
「八時頃出たので、跡をつけてきたら、この病院に着いたってわけ。受付で従妹だって言ったら、病室教えてくれたわ」
 女の知恵には驚かされた。
「奥さんと会うのはまずいから、赤いポルシェが出て行くまで待って、ここに訪ねてきたってわけ」
 そりゃどうも。
「それでね。修さんは忘れてしまっているかもしれないけれど、あたしは修さんに北さんを誘惑してくれって頼まれたの」
「北さんって、北村の事?」
「そうよ。そうに決まっているじゃない。何とかシステムの専務だとか言ってたわよね」
 北村は、何とかシステムじゃなく、(株)TKシステムズの専務だ。
「それで」
「北さんを誘惑しろって言ったでしょ。あたしのタイプじゃないから嫌だって言ったけれど、修さんのたっての頼みだって言うし、あたし、お金に弱いし……」
「それ、いつ頃の事」
「ほんとに、忘れているのね。去年の夏頃だったかしら」
 TK-Wordのプロトタイプができ、修正を施していた頃だった。その頃から、富岡は北村に接触していたのか。
「北さんって、お酒にはあまり強くないわね。ある程度飲むと、すぐ眠るの」
「…………」
「だから、ホテルに連れていって、朝まで寝かせていた事もあったわ。その時は、すっかり、あたしと関係を持ったと思い込んだわね」
 北村のそんな一面を私は知らなかった。私と酒を飲んでいるときとは違っていたからだ。
「北さんは、すっかりあたしにのめり込んでいったわ」
「…………」
「お店のお勘定も給料だけじゃ足りなかったでしょうね。そこに修さんがつけ込んだのよ」
 私は再び怒りが湧いてきた。しかし、今度はコントロールできた。怒りの矛先は、目の前の女よりも、富岡に向かっていたが、その富岡は私がすでに殺していた。確かに殺したが、こうして富岡のやってきた事を聞いていると、怒りを収める事は難しかった。
「修さんが、北さんに何度かお金を渡しているのを見たわ。最初は北さんは断っていたようだけれど、修さんは胸ポケットに突っ込むように無理に渡していたわね。そのうちに、北さんも黙って受け取るようになった」
 私には、その光景が見えるようだった。
「北さんは、あたしと寝たと思っているから、何度も誘ってきたわ。でもね、その都度、あたしははぐらかしていたの」
 あの頃の北村のそわそわした様子はそういう事だったのか、と今頃になって合点がいった。北村は、富岡からお金を貰う代わりに、うちの新製品の情報を流していた。その一方で、このあけみとかいう女が、北村にお金を使わせていた。
 何て卑怯な方法なんだ。女がいなければ怒鳴っていただろう。
「そうね、年が明けてすぐの頃だったかしら。北さんに真剣にしらふの時に抱きたいってお願いされたの。あたしも断り切れなくなってきたものだから、今のアパートからマンションに引っ越したいから、百万円出してくれたら、寝てあげるって言ってしまったの。そんなお金、北さんにない事知っていたから、断る口実だったのよ」
「でも、彼の事だから真に受けたんでしょう」
「そうなの。お金の事はなんとかするから、ってきかないの。あれ、修ちゃん、北さんの事知っているじゃん」
「そうじゃないけれど、話を聞いていれば分かりますよ」
 北村の事は知っているつもりだったが、ここまで女に免疫がないとは思わなかった。
「その話をしたら、何故か修ちゃん、あなたはニヤリと笑ったわね。それで、彼の思うようにしてやれよ、と言ったの。北村には俺からお金を渡すから、って。そして、先にやらしたっていいだろう、って言ったわ。で、そうなったわけ」
「なるほど」
「だから、北さんが交通事故で死んだ時は、びっくりしたの。まだ彼からお金受け取っていなかったんだもの」
「北村が死んで、悼まなかったんですか」
「そりゃ、気の毒に思ったわよ。でも、あたしのようなものが通夜に行くのは変でしょ。あたしだって、商売だったんだから」
「それはそうですね」
 私が北村の葬儀は仕切った。誰か、密かに付き合っている女性でもいるのかと思って通夜に来ている者には注意を払っていたつもりだったが、その場には、あけみのような女性は来なかった。
「で、あたしの百万円はどうなるの。この話、反古にする気なの」
 女は、私の状態を見て、すぐに手にできるとは思わなくなったようだ。
「少し考えさせてください。私はその話も含めて、すっかり記憶を失っているんです。何が真実かなのかさえも、わからないんです」
「でも、この話は修ちゃんとの約束なんだよ。真実も何も、あたし、嘘なんか言ってないから」
「ええ、そうなんでしょうね」
 これは高瀬ではなく、富岡の事なのだ。彼ならやりそうな事だった。女の言っている事が嘘だとは思わなかった。この話が本当だとすれば、北村が私を裏切った理由も説明がつく。北村は女という毒に飲み込まれたのだ。
「あたし、絶対あきらめないからね」
「わかりました」
「その言い方もいらつくのよね。修ちゃんらしくない。あたしの修ちゃんはどこに行ったの」
 単なる言葉の綾だろうが、私にはドキッとした。
「私も知りたいのです、私の事を」
「今日は、これで帰るけれど、また来るからね。その時には、ちゃんと、お金、用意しておいて欲しいわね」
 女が帰ろうとした。私は慌てて「名刺、持ってますか」と言った。
 女の名前があけみだという事は分かった。しかし、何処で働いているのか、知らなかった。
「これよ」
 クラブ「楓」、銀座****、と表には、書かれていて、裏には、あけみ、と印字されていた。女は病室のドアを乱暴に開けて、閉めて出ていった。

小説「真理の微笑」

二十六-2

 それからどれくらい時間が経っただろうか、三十分とは経っていなかったと思う。
 突然、病室に若い、少しケバケバした女性が現れた。
 私を見るなり、「修ちゃん、こんなところにいたの」と抱きついてきた。
 私は彼女を引き離すと、「ちょっと、待ってください。あなたはいったい誰ですか」と訊いた。
 彼女は私の発した声に一瞬、ぎょっとした。
「どうしたの、その声」
「声帯を損傷したので、こんな声しか出ないんです」
「そう。事故っちゃったんだものね」
 私は頷いた。
「ねぇ、あたし、あたしよ。あ・け・み、わかる」
 もちろん、見覚えはなかった。
 きょとんとしている私に「どうしちゃったの、修ちゃん。あたしがわからないの」と言った。私は頷いた。
「ほんとにわからないの」
「ええ」
「うそでしょう。誤魔化してない?」
「事故前の記憶がないんです。本当です」
「やだぁ~、困っちゃった」
「どうしたんですか」
「あたしとの約束も忘れちゃったってわけ?」
「約束?」
「そうよ、約束」
 私は頭を左右に振った。
「北さんの事よ」
「…………」
「あんな事になっちゃったから、言い出しにくかったんだけれど、約束したわよね。北さんと寝たら百万くれるって。あたし、守ったわよ」
 ケロッとして言う、あけみという女に、私は躰中が震え出すほどに、血が頭に上っていくのが分かった。この女だったのか、北村を誘惑したのは。
 躰が自由に動けば、この女を絞め殺したくなっているところだった。躰がガタガタ動き出した。この女と二人だけで病室にいる事に耐え難くなったのだった。
 私はナースコールした。すぐに看護師がやってきた。
 私はわざと激しい呼吸をした。看護師は彼女をベッドからどかして、血圧を測った。私は分からないように思いっきり力んだ。血圧は思ったほどには上がらなかったが、普段よりは高かった。
「どうしたんですか」
 看護師がそう訊いた。
「少し、胸が苦しくなって……」と言った。
「それじゃあ、先生、呼んできますね」
 看護師は出て行った。
 さっきの女は部屋の隅に立っていた。所在なさげだった。
「あたし、帰るね。また来るわ」と彼女が言うと、少しは冷静さを取り戻した私は「待ってくれ。話を聞くから」と言った。怒りは収まらなかったが、このまま帰しても、気になるだけだったからだ。
「そこにいてくれ」
 しばらくして、医者と看護師がやってきた。医者が私の胸に聴診器を当てた。やがて聴診器を首にぶら下げて「心配いりません。胸の音は綺麗です」と言った。
「そうですか。ご心配をおかけしました」と言うと、「いいんですよ。気になったらいつでも声をかけてください」と言って出て行った。
 部屋の隅にいた女がベッドに寄ってきて「あたしのせい」と訊いた。
「ちょっと、驚いただけですよ」と私は努めて冷静さを保って、そう言った。
「クラブにも来ないし、会社に電話しても社長はいないって言うし、一体、どうなっているのか、全然わからなかったの。これでも心配していたのよ」
 彼女は二十四、五歳といったところだろうか。もう少し若いかも知れなかった。化粧が濃いめなので、年齢がよくは分からなかった。ただ、声が若さを感じさせた。
「見ての通りです。自動車事故を起こして、今はベッドから出られません。そして、事故前の記憶を全部失っているんです」
「そう」
「自動車事故の事は報じられているかも知れませんが、どうしてこの病院が分かったんですか」と、私は疑問に思っている事を口にした。
 女はベッドの側の椅子に座って、「あたしだって馬鹿じゃないわ。二ヶ月も修さんと連絡が取れないなんて普通じゃないもの。何かあった事ぐらい、わかるわよ」と言った。
「でも葬式が行われた様子もないから、病気にでもなったんじゃないかと思ったの」
「そうか」
「いろいろ捜したわよ。でも、駄目ね。むやみに捜しても見つかるはずないもの」
 それはそうだろう、と思った。
「それでね、いい事思いついたの」
 女の目が輝いた。

小説「真理の微笑」

二十六-1
 眠りの中で、億万長者になった夢を見ていた。祐一が広い家の芝生で遊び、その側に夏美がいた。夢の中では祐一は四、五歳ぐらいだったろうか。夏美は大学生の時のような若さだった。白いブラウスに白いスカートを着ていた。
 夏の穏やかな日だった……。

 朝、体温と血圧を測りに来た看護師に起こされるまで、その夢を見ていた。実際に自分は成功者になったが、夢とはどれほどまでにかけ離れてしまっていただろうか。
 看護師がいる前で、私は危うく涙を落とすところだった。
「36.4度。血圧は、120に68。いいですね」
「…………」
「眠れましたか」
「ええ」
「あまり、眠れなかったんじゃないですか。目が充血していますよ」
「起きがけだからでしょう」
「あまり眠れないようなら、言ってくださいね」
「分かりました」
「今日も午後からリハビリです。三時になったら迎えに来ますね」
「はい」
 看護師が出て行くと、またベッドに横たわった。

 朝食が済んだ頃、真理子がやってきた。
 今日、シャワーを浴びるのでバスタオルとフェイスタオルに新しく買った肌着を持ってきた。真理子がバスタオルとフェイスタオルを用意してくれるので、それらはレンタルしなかった。
「昨日、松本電気に行ってきたわよ。あなたが欲しいって言っているもののメモを見せたら、来週明けには全部ここに届けてくれるそうよ」
「ありがとう」
 私は感謝を込めてキスをした。
 これでパソコン通信ができる。外の情報も伝わってくる。
「家のバリアフリーの件だけれど」
「うん」
「家を建てた時の施工会社に頼んだわ」
「そうか。いろいろと大変だね」
「そうね」
「でも、今の真理子は生き生きとして見える」
 私は前の真理子を知っていたわけではなかったが、何だか今の彼女を見ていると、大変そうな感じは受けなかった。
「何、言ってるの。あなたがこんなふうだからじゃないの」
 真理子は私の膝あたりを軽く叩いた。
「いて」
 痛くはなかったが、私はふざけてそう言った。
「あっ、ごめんなさい」
 毛布の上から、膝をさすりながら真理子は言った。きっとプラスチックのカバーに触れたのだろう。
「この上からでも痛むの」
 心配そうに、私の顔を覗き込んだ。
 足は全体的に痺れたような感じがあるだけだった。しかし、嘘だったとも言えず「少し」と答えた。
「あなたが入院して、このところ、わたし、すっかり会社出勤するようになったわね」
「ほんとだね」と、私は笑った。
「家で家事をしているより、向いているのかも知れない」と真理子が言うと、「きっと、そうなんだよ」と私も同意した。
 真理子を見ていると、じっと家にいるようなタイプには見えなかった。と、その時、今まで子どもの話が出てこなかった事に気付いた。
 つい、「子どもは……」と言いそうになったが、これまで話題にあがらなかったのだから、いないと考えるのが普通だと思い直した。余計な事はしゃべらない事が肝心だった。もし、いればそのうち分かる事だろうと思った。
「何か、伝えておく事ある?」
「いや、特にない」
「会社移転の方は、あなたが希望した所で進めていいのよね」
「そうしてくれ」
「じゃあ、行くわね」
 真理子は軽く手を振って病室を出て行った。

小説「真理の微笑」

二十五
 刑事の事は気になったが、気にかけても仕方なかった。
 しかし、すっかり忘れていた事だったが、茅野の駐車場に自分の車を止めていたというのは、あまり上手くはなかったと思った。もし、事故が起こらなくて、富岡が失踪したという事になったとしても、駐車場には監視カメラが付いているかも知れない。それでそこに私の車が止まっていた事が分かれば、警察は不審に思うだろう。しかし、茅野の駐車場に一時的に駐車している私の車までに警察が辿り着く可能性は非常に低いと考えたのだ。
 もちろん、どこかの山道から入り込んだ所に車を止めておく事も何度も検討した。しかし、土地勘のない私には、適当な場所は思いつかなかった。東京まで富岡の車を運び、適当な所で乗り捨ててから、茅野に戻り自分の車で帰って来るなら、分かりにくい山道に止めるのは、逆に危険に思えたのだった。
 しかし、それはもう考えない事にした。それにしても刑事が来た時の真理子の態度は、頼もしくさえ思えた。私は母親の陰に隠れる子どものようだった。

 夕食をとり、就寝前の体温と脈拍を測ったら、私はベッドに横たわった。
 考え忘れた事はないかを確認しているうちに、夏美と祐一の姿が思い浮かんできた。
 実家で撮られた、あの雑誌の写真が頭から離れなかった。
 夏美とは大学のサークルで知り合った。夏美は学年が一つ下だった。春、恒例の呼び込みの時に、私が友達と連れ立って歩いている彼女を呼び止めたのが、最初の出逢いだった。私の好みは夏美よりも、その隣にいた彼女の方だった。彼女はどちらかと言えば、真理子みたいなタイプだった。だが、私の話を熱心に聞いたのは夏美の方だった。
 私は政治・経済学部にいて、サークルは日本の未来を予測する事が中心だった。夏美は文学部だった。政治・経済とは無縁だった。そして、その友達もそうだった。
 だから、友達は私の話にすっかり興味を失っていたが、夏美はそうではなかった。
 当時の日本経済は高度成長期にあり、ドイツを抜いて世界第二位の経済大国になっていた。しかし、私はそんな経済モデルはやがて廃れるだろうと予想していた。経済が傾く前に、年金や医療保険などの制度設計をやり直す必要があると思っていた。そんな事を話していた。しかし、私の話は誰も聞いてはくれなかった、夏美を除いて。
「行こう」と言う友達に手を引かれて離れていく時に、夏美は「わたしもそう思うわ」と言った。
 夏美は後でサークルに入会した。サークルは女性会員が少なかったから、必然的に女性はちやほやされた。私はそんな会員たちとは少し距離を置いていた。当時私は、流行りだしていたパソコンに夢中だった。教室で授業を受けているより、秋葉原に通っている方が多いくらいだった。プログラミング言語も独学で習得した。
 夏美には、パソコンの話を夢中でした。そんな話にも夏美は付き合ってくれた。他のサークル仲間は、パソコンにはあまり興味がなかったのだ。
 夏美は美人ではなかったが、よく笑った。その笑顔がチャーミングだった。私はいつしか夏美を好きになっていた。
 大学を卒業したら就職をしないで、プログラミングの専門学校に通った。そこで、それまで独学で学んでいたプログラミングの技術に磨きをかけた。一年も経つと、専門学校の授業では物足りなくなっていた。
 専門学校を出ると、私は大手のソフト会社の子会社に入った。そこでは、ある専門学校から依頼された学生名簿のデータ入力ソフトをIBM製のパソコンで作った。その時にデータベースソフトや表計算ソフトのプログラムや構造を知った。
 これを個人でも使えるようにすれば、随分と便利になるだろうと思った。また、その会社では日報などをワードプロセッサーで入力していたので、ワープロにも慣れていった。
 家に帰れば、自作のパソコンを作っていた。それを使って、最初はゲームを作っていたが、次第にワープロソフトやデータベースソフトを作るようになっていった。
 数年もしないうちに、そのソフト会社で働いている事が馬鹿馬鹿しくなってきていた。自分でソフトを作りたくて仕方なくなっていたのだ。しかし、自分の限界も知っていた。プログラミングはともかくも、パソコンを自作できても本当のところ機械的な部分についてはよく分かっていなかった。そんな時だった、技術系が強い北村と出会ったのは。
 私たちはすぐに意気投合し、起業する事になった。そこに前の会社から私が引き抜いてきたシステムエンジニアの中島とプログラマーの岡崎が加わった。そして電話番として夏美が手伝ってくれた。雑用は全て彼女に任せた。その頃には、私たちは結婚こそしていなかったが、すでに同棲していた。
 ソフトを作りたいと思って設立した会社だったが、最初は昔働いていた会社の下請けのような仕事しかなかった。しかし、会社の経営基盤はそれで安定した。その時に、夏美と結婚をした。結婚式はしなかったが、結婚指輪だけは作って、二人で交換して嵌めた。
 それからだった、独自のソフトウェアを作り出すようになったのは。最初の二年ほどはゲームソフトを作っていた。しかし、他社のワープロソフトが出だして、そこそこの売上を上げているのを見て、我が社でも作ろうという事になった。ただのワープロソフトでは他社と差別化ができないから、表計算ソフトを組み込もうと私が提案すると、みんなが乗り気になった。
 難しい事は分かっていた。分かっていたからこそ、乗り気になったのだった。
 三年前の事だった。そして、三年の年月をかけて、念願のワープロソフトを作りあげたのだった。
 そのワープロソフトが富岡に奪われたのだった。

小説「真理の微笑」

二十四
 二人の刑事が出て行くと、「何あれ」と真理子は怒っていた。
「その誰かの失踪とあなたの事故がどう関係があると言うのよ。邪推もほどほどにして欲しいわ」
 真理子の怒りは当然だった。事故の事を訊きに来るのなら、まだしも、高瀬隆一の失踪について訊きに来るのは、確かに筋が通らなかった。普通なら筋違いではあったが、あの刑事たちは、とにかく疑問に思った事を関係者にぶつけてみて、反応を見てみたのだろう。富岡となった私に会いに来たのもその一環に違いない。
 しかし、私は記憶を失っている事になっている上に、まだ上手くしゃべれないから、応対は真理子がしてくれた。その真理子が刑事たちを追い払ってくれたのはありがたかった。あの刑事たちには、私の反応を見る事はできなかっただろう。

 しばらくして真理子は落ち着くと、「もう刑事たちが来ても病室には入れないわ」と言った。
「向こうも仕事だから、しょうがないだろう」
「あなたは平気なの」
「俺には関係のない事だから、平気だよ」
 私は努めて平静を装って言った。私がそう言ったので、「考えてみればそうよね。あんな人たち、気にする事なんかないわね」と真理子も同意した。
「そうだよ。それより、会社移転の方が大事だ」
 私はプリントアウトされた一枚を取り上げて「この青山にある****ビルの六階ってのはどうだろう。三百八十一.二十六平米で月五百六十八万七千七百四十円、保証金十二ヶ月っていうのは手頃じゃないか」と言った。
「青山の一等地にあるわね」
「ああ」
「明日、会社に行ったら、あたってみるわね」
「うん。それから欲しいものがあるんだ」
「なあに」
 私はパソコン雑誌の広告のところを開いて「これなんだが」と切り出した。そこには新発売のラップトップパソコンが載っていた。
「ここにいてもパソコンがないと落ち着かない」
「あなたは養生していればいいのに」
「もう十分、休養はした。退屈でしょうがないんだ。パソコン雑誌や週刊誌を読んでいるのも飽きたし」
「わかったわ。でも、パソコンを持ち込んでもいいのかしら」
「看護師に訊いてきてくれないか」
「そうするわ」
 真理子は出て行った。
 私はパソコン雑誌を眺めてモデムも決めていた。
 真理子は看護師を連れてきた。彼女は部屋を見渡して、「ここにパソコンを入れるんですか」と訊いた。
「ええ、でもラップトップパソコンといって、極めて小さいものです」
 真理子が間に入って、私の言葉を看護師に伝えようとした。しかし、「大丈夫です、わかりますから」と看護師は言った。それから「前例がありません」と言った。
「それはそうでしょう。最近出たばかりの機種ですから」
 私は看護師の前例がないと言った言葉を無視し、雑誌の広告を見せて「これです」と説明した。
「事務長と相談して、後でお返事するという事でいいですか」
「ええ、それでいいです。それとそこの電話線使えますか」
「これですか」
「ええ。それなら電話を使ってもいいですか」
「特別な許可がいりますよ」
「構いません」
「わかりました。その件も事務長に相談してみます」
「お願いします」

 看護師が出て行くと、真理子が「電話ならわたしがするのに」と言った。
「それにあなたの声じゃ……」
「電話が使いたいわけじゃないんだ」
「何なの」
「電話線が使いたいんだ」
「どういう事」
 君には……と言い出そうとして、前に「真理子」と呼んだ事を思い出した。呼び名は、極力、名前で呼ぶ事にした。
「真理子には分からないかも知れないが、パソコン通信がしたいんだ。それができれば、会社にいなくても、ここから指示が出せる」
「そうなの」
「ああ」
「へえ~。便利なのね」
 そう話している時に、看護師が来た。
「最近、使われ出した携帯電話のように電波が出るものじゃありませんよね」
「ええ、それは保証します」
「では、この書類に持ち込む物の品名と用途を書いてください」
 私は上手く字が書けないから、その用紙は真理子に渡した。
 私の名前と住所、電話番号を書き、品名のところには「ラップトップパソコン」と書いた。用途は、「プログラミング、パソコンソフトの使用及びパソコン通信」とし、最後の日付の欄は「一九八*年九月*日」と書き入れた。
 印のところだけ、私が何とか富岡と書いて○で囲んだ。
「次はこれです」
 今度は電話使用許可の書類だった。保証金が十万円だった。
「高いですね」
 その保証金の額を見て、真理子が言った。
「ここから外国に電話をする人も多いんですよ」と看護師は答えた。
 その書類も真理子が書いて、印のところだけ私がサインをした。
「ここの電話番号は〇三-***-****です」
 看護師は書類の写しを渡しながら、その下の方に書いてある電話番号のところを示した。
 それを見て、改めてここが東京都だと思った。
 事故を起こしたのは、長野県だった。救急車で近くの病院に搬送された。状態が悪くて、一刻を争っている状況だった。上半身に火傷を負っている上に、顔を始めとして至るところが骨折していて、内臓の損傷も激しかった。そこでは処置しきれなかったから、容態が落ち着くのを待って、東京の大病院まで運ばれてきたのだった。
「電話料金は退院後の精算になります。郵便局の振込用紙に金額が書き込まれていますから、それで払い込んでください。後で電話機を持ってきますね」
 看護師がそう言ったので、うっかり「電話機はいらない」と言いそうになって、その言葉を私は飲み込んだ。パソコン通信をするだけならモデムがあれば電話機自体はいらない。しかし、電話を使わないとも限らなかったからだ。

 真理子には、ラップトップパソコンの製品名とモデム、そして電話線ケーブルを購入してくるようにメモさせた。そして、この病室宛に届けるように伝えた。
「わかったわ」と言った真理子は、夕食前に出て行った。私が彼女を急かせたのだった。

 

小説「真理の微笑」

二十三-2

 そんな話をしている時、看護師が入ってきた。
「今、警察の方が来ているんですけれど、お通ししていいでしょうか」
 真理子は「またなの」と言った。
「ええ」と看護師は応えた。
 私は正直言えば帰ってもらいたかったが、事故の事など、知りたい事もいっぱいあった。第一、警察が何処まで真相を掴んでいるのか、探りたい気持ちもあった。
「入ってもらえ」
 私はゴロゴロする声で言った。
「わかりました」
 看護師がそう言うと、二人の刑事が入ってきた。一人は背はそれほど高くはなかったが、がっしりした中年の男で、もう一人はそれよりも若い背の高い男だった。警察手帳を見せて、がっしりした方が「野島です」と言い、もう一人が「宮川です」と名乗った。
 二人は看護師に出された椅子に座った。
 真理子は病室の隅の窓辺に立っていた。
「今日は何の用なんですか。事故の事ならもう済んだんでしょう」
 真理子がきつい口調で言った。
「いや、私たちは長野県警の者ではないんですよ。警視庁です」
「えっ」
「いや、二ヶ月ほど前に高瀬夏美さんからご主人の捜索願が出されていましてね、それを調べているんです」
 私は高瀬夏美と聞いてドキッとした。いつか譫言で夏美の名を呼んでしまった事を真理子は聞いているはずだったからだ。つい真理子の顔を見ようとしたが、堪えた。
「その事がうちと何か関係があるんですか」
 しかし、真理子は相変わらずきつい口調だった。夏美と聞いて気付かなかったのだろうか。気付いたかも知れないが、真理子はそんな素振りさえも見せなかった。だから、私には何も分からなかった。
「高瀬隆一さんの乗用車が茅野の駐車場から見つかったんですよ」
 年配の方が言った。
「茅野?」
 真理子が呟くように言った。
 私はどんな顔をしていたのだろう。
「不思議でしょ」
「茅野と言えば、富岡さん、あなたの別荘がある蓼科に行く通り道ですよね」
「何を言っているんですか」
 私はつい口を出してしまっていた。ゴロゴロする声に二人は驚いたようだ。真理子が私の代わりに言い直した。
「二ヶ月前と言えば、あなたが事故に遭われた頃ですよね。これ、偶然ですかね」
「何が言いたいんですか」
 真理子が言った。私はといえば刑事の鋭い勘に驚いていた。
「元の従業員の人にも話を聞いたんですよ。中島さんと岡崎さんだったかな。二人の話では、この春頃に画期的なワープロソフトを発売する予定だったという事らしいんですね。何でもワープロソフトなんだけれども、表計算ソフトみたいな事ができるとかなんとか」
 私は心の中で震えていた。それはTK-Wordの事だった。北村が盗み出して、富岡に渡したワープロソフトだった。
「それがどうしたんですの」
 真理子が言った。
「それって、トミーワープロとそっくりだったというではないですか。どういう事なんですかね」
「何を言いたいんですか」
 真理子が怒った。
「ですから……」
「帰って下さい。そんな話、聞きたくもないわ。その高瀬とかいう人の失踪と何の関係もない事じゃないですか」
「関係があるかも知れないから、お尋ねしてるんです」
「関係なんてあるわけないじゃないですか。失礼しちゃうわね」
 私は真理子を見た。彼女は本気で怒っていた。
「もう、いいでしょう。帰って下さい」
 真理子の剣幕に追い立てられるようにして、二人は病室を出て行った。しかし、帰りがけに年配の方が「また、お邪魔するかもしれませんよ」と言った。
「何て人たちなの」
 真理子は肩で息をしていた。そんな真理子を見ていたら、心の震えが治まってきた。
 彼らは私の様子を見に来たのだ。
 高瀬隆一が失踪して二ヶ月が経っている。なのに何の手がかりも掴めない。普通なら、もう捜査は打ち切られているだろう。だが、茅野の駐車場から高瀬である私の乗用車が発見された。そして、同じ頃、富岡が蓼科の山道で自動車事故を起こしている。これはどういう事なのだろうか、と考えるのは当然だ。
 失踪と自動車事故、一見関係なさそうな二つの出来事だが、両方とも同じようなソフトを作っているソフトウェア会社の社長だったとしたら、偶然と言えるのだろうか。しかも、元の従業員の話によれば、トミーワープロは、その失踪した高瀬の会社で作っていたワープロソフトとそっくりだと言う。それが本当であれば、富岡が高瀬の会社のソフトを盗み、売り出した事になる。とすれば、高瀬が黙っているはずがない。富岡と高瀬が言い争いになり、その結果、富岡が高瀬を殺してどこかに埋め、その帰り道に事故を起こした。
 二人の刑事が考えている事柄はそんなところだろう。
 だが、高瀬が見つからない限り、富岡を殺人者にする事はできない。しかし、高瀬が見つからなかったとしても、状況証拠が揃ったら、富岡として高瀬である私が逮捕される可能性はある。
 高瀬が生きている事を証明する事ができれば事は簡単だが、それは富岡が死亡している事と引き換えになる可能性があり、できる事ではなかった。