小説「僕が、剣道ですか? 3」

「止めろ」

 僕はきくとききょうを路地の奥に押しやった。

 周りから、何人かがきくとききょうを捕まえようとしていた。

 その写真も携帯で撮った。写真を撮られたことは、奴らには分からなかったはずだ。

 きくに最初に手を出そうとした奴の顔面を思い切りナックルダスターを嵌めた拳で殴った。鼻と顎の骨が折れたことだろう。

「この野郎」

 次に襲いかかって来た奴とは、拳と拳がぶつかった。相手の拳が砕けるのが分かった。

 もう一人は、腕をとって投げながら地面に叩き付けた。そいつは脱臼で済んだはずだ。

 最後にきくに手をかけようとした奴は、肘で右腕をへし折った。

 それは一瞬のことだった。

 きくとききょうを捕まえようとした四人が地面に転がっていた。

 僕は録音を止め、録音データをクラウドストレージにアップロードした。

「あっ、こいつ、武が言っていた奴じゃないか」

「馬鹿、名前を出すな」

「この間、古物商の後をつけてやられたっていう奴」

「そうかもな」

「だったら、油断はできないぞ」

「待て、今から仲間を呼ぶから」

 僕は仲間を呼ばれてはたまらないから、携帯を出した奴に向かっていった。

 相手は不意を突かれて、驚いていた。その隙に携帯を取り出した奴のところまで走り寄っていた。そして、その持っていた手の平ごと携帯を潰した。

 他の奴が携帯を出していないことを確かめると、今度はこちらから攻めた。

 きくの近くにいる奴から、狙いをつけた。そいつはチェーンを握っていた。それをアスファルトの地面に叩き付けるように威嚇してきた。僕は少しずつ回り込んで、僕の後ろにきくが来るようにした。

「きく、僕の後ろから少し離れていろ」と言った。

「わかりました」

 チェーンを持った男が、それを振りかざして殴りかかってきた。チェーンは誰もいない地面をしたたかに打った。僕は上に飛び上がっていた。そして、打ち下ろしたチェーンの腕を膝でへし折った。

 六人やられたが、まだ相手は九人いる。その数の優位さが彼らの怯えを抑えていた。

「女を捕まえろ。そうすれば手出しできなくなる」

「はぁ」と言っていた奴が、そう言った。こいつがヘッドのようだった。

 九人はきくを捕まえようとしていた。

「テツ、ゲン、アキ。こいつを止めていろ」と奴が叫んだ。おそらく、その隙にきくを捕まえようとするのだろう。

 テツとゲンとアキが僕の方に向かってきた。しかし、僕は彼らを相手にする気はなかった。きくを捕まえようとしていた奴を捕まえると、そいつの顔面を殴った。すぐに鉄パイプが振り下ろされた。それを避けると、鉄パイプを握り締め、奪い取ると、逆に鉄パイプでそいつの足を打ち付けた。

 鉄パイプを剣のように持つと、右から襲いかかってきた奴の腹を鉄パイプで突いた。左からナイフを突き立てようとした奴は、そのナイフを鉄パイプで払った。そして、鉄パイプで胸を突いた。

 僕は鉄パイプを投げ捨てると、テツ、ゲン、アキの三人に向かっていった。彼らの繰り出すパンチを避けて、顔面にナックルダスターをお見舞いしていった。

 逃げだそうとしていた二人に先回りをすると、「はぁ」のお兄さんを残して、もう一人の右腕をへし折った。

 僕は「はぁ」のお兄さんの髪を掴んで、アスファルトの地面にこすりつけた。

「さて、これからが問題です。謝るって何ですか」

「はぁ」のお兄さんは「済みませんでした」と言った。

「それ謝ってんのかなあ」と僕は彼の顔面をアスファルトの地面に叩き付けた。

 そして、右腕を足でへし折った。

 路地の奥にいたきくを呼んで、「怖がらせて済まなかったな」と言った。

「いいえ、京介様なら何とかしてくれると思っていました」

「そうか。じゃあ、帰るか」と言ったが、「おっと、その前に」と彼らのポケットを探った。生徒手帳が出てきた。皆、黒金高校だった。それらを携帯で写真に撮り、クラウドストレージにアップロードした。

 

 家に帰ると、買ってきたパンツをきくは穿いた。

「どうだ」

「スカートより、こっちの方が動きやすいです」と言った。

「そうか。それではばかりは大丈夫か」

「これを降ろせばいいんでしょう」

「そうだ」

ショーツとかストッキングと同じですよね」

「うん」

「じゃあ、大丈夫です」

「そうか」

 親父が書斎から出てきた。

「帰ってたのか」

「ああ」

「それ買ってきたのか」

「うん。どう」

「いいんじゃないか」

 

 そのうちに母も帰ってきた。

「何の用だったの」

「おばあちゃんのことよ」

「どうかしたの」

認知症が進んでいるのよ。それで兄嫁が手に負えなくなっているから施設に預けようと思っているんだけれど、どうするかって話になったのよ」

「それで、どうなったの」

「預けることになったんだけれど、施設の入居費が高いのよ。それで一部をうちでも負担してくれないかって言われてきたの」

「いくらぐらいなんだ」と父が訊いた。

「二千万円のうち、一千万負担して欲しいって言われたの」

「一千万円か。厳しいな」

「ちょっと待ってて」

 僕は二階に上がっていって、巾着の中から小判を五枚取り出した。

 それを持って、下に降りてきた。

「はい、これ」

「はい、これって」

「小判だよ。この前、二百万円でなら引き取るって、親父が言っていたところあったよね。黒金古物商は駄目だけれど、そこなら安心じゃないかな。足りなければもう少しあるけれど」

 そう僕が言うと、母は「ありがとう。助かるわ」と言った。

 これで親孝行ができれば安いものだと、僕は思った。

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 次の日は日曜日だった。母は用があるとかで、朝早くから出かけていた。

 晴れたいい日だった。きくは昨日買ってもらった服を何度も着替えて鏡に映していた。

「出かけたいなぁ」ときくは言った。

 昨日の新宿での買物が楽しかったのだろう。

「そうだな、こんな天気のいい日に、一日家に籠もっているの馬鹿らしいよな。出かける前にききょうにおっぱいいっぱい飲ませておけよ」

「わかりました」

「親父、出かけるけど、留守番頼むよ」

「わかった」

 僕は昨日新宿に行ったから、今日は渋谷に行こうと思った。きくがパンツ類に興味を持っていたようだったから、それらを見て回ろうと思った。

 財布には少し余裕があるだけのお金は入れた。

 きくがききょうに授乳するのを待って出かけた。

 きくは白いコートも買っていた。それを着て、僕はいつものオーバーだった。

 ききょうは抱っこ紐できくが抱いていた。きくは小さいから、小学生が赤ちゃんを抱いているような感じに見えた。

 電車に乗って、渋谷に出た。

 渋谷は久しぶりだった。こんなにも変わったのかというくらい、分からなくなっていた。

 とにかく歩いて女性もののパンツを売っている店を探した。

 それらしい店を見つけたので入った。店員にきくを見せて「この子に似合うのを選んでください」と言った。きくがパンツを選んでいる間は、僕が抱っこ紐でききょうを抱っこした。

 きくはパンツの穿き方から店員に教わっていた。

「これとこれがいい」と言うので二つ買った。

「急ぎで裾上げをしますか」と訊かれたので「はい」と答えると、一時間ほどかかると言うのでそれで構わないと言って代金を払い、「一時間後に来ます」と言って店を出た。

 昼頃になっていたので、何か食べようと思った。

 きくにはわからない食べ物であふれていた。僕は自分の好みでハンバーガー店に入っていた。きくにはオーソドックスなハンバーガーを注文し、僕はキングサイズを頼んだ。代金を払って、受け取り口で待った。トレーに載せて運ぶ時、普通サイズのハンバーガーとその三倍ほどの大きさのキングサイズのハンバーガーにきくは驚いていた。

 飲み物は僕はコーラにしたが、きくはカルピスにした。きくにはソーダ水はまだ無理かなと思ったからだ。カルピスなら、子どもでも喜ぶだろうと思って……。案の定、カルピスを一口飲んだだけで「美味しい、こんなに美味しい飲み物があるなんて知りませんでした」と言った。

 きくはハンバーガーを食べるのには、苦労していた。口よりでかいパンをどうやって食べられるのか、不思議に思ったらしかった。僕はパンを潰して口に入れるんだよ、と教えた。でも、きくは上手くはできなかった。口の回り中をケチャップだらけにした。

 ゆっくりと時間を過ごして、一時間ほどが過ぎた。ハンバーガー店を出て、さっきの店に寄った。裾上げができていると言うので、試着してみた。OKだったので、袋に入れてもらい店を出た。

 抱っこ紐でききょうを抱いているきくは、通り過ぎる女の子たちには「可愛い」と何人にも言われた。きくはそれが嬉しそうだった。

 もう、そろそろ帰ろうと思ったが、歩いているうちに駅の方向が分からなくなった。

 そのうち、誰かと肩がぶつかった。僕は「済みません」と謝った。そして、先に行こうとした。するといきなりオーバーの襟を掴まれた。

 そいつは「ぶつかっといて謝らないで行く気かよ」と言った。

「さっき、謝ったじゃないですか」

「はぁ」

「聞こえなかったんですね。済みません」と僕は言った。

「はぁ」

「離してくださいよ」

 そいつは手を離した。僕はもう一度「済みませんでした」と言って、歩いて行こうとした。すると、きくが前を塞がれていた。仕方なく、別の方向に歩き出した。

「きく、私にもっと近付いていろ」と言った。

 次第に渋谷から遠ざかっていった。

 とにかく、前に歩いた。

 後ろからは、がらの悪そうな連中がついてきていた。

 いつの間にか、黒金町に入っていた。

 あの黒金古物商が遠くに見えていた。

「京介様、わたし、こわいです」ときくが言った。

「そうだな。少し早く歩くか」

 黒金町を抜ければ、新宿に入る。そこまでは遠かったが、引き返すよりはましに思えた。

 歩みを早めた。しかし、後ろの連中も速く歩き出した。

 先には路地が見えた。

 いつの間にか、向かい側からも、がらの悪い連中がやってきた。

 路地で挟まれた。僕はきくを連れて、先に行こうとした。しかし、またしてもオーバーの襟を掴まれた。

「なぁ、俺は謝ってくれって言ってんだ。何も難しいことを言っているわけじゃないだろう」

 僕ときくとききょうは、路地に押し込められていった。

「謝ったじゃないですか」

「はぁ」

「その、はぁ、が分からないんですけれど」と僕は言った。そう言いながら携帯を出して、彼らの写真を撮った。彼らには素早すぎて写真を撮られたことも分からなかっただろう。

 写真はすぐにクラウドストレージにアップロードした。と同時に録音を始めた。

「はぁ」と言った奴が、周りを見回して、「こいつ、謝り方も知らねえぞ」と言った。

「済みませんじゃ、いけませんか」と僕は言った。きくは僕にしがみついていた。

 僕はオーバーのポケットの中を探って、皮手袋を脱ぎ、前にごろつきから奪ったナックルダスターを右手に嵌めた。そして皮手袋をその上からした。さすがに上まで引き上げられなかったので、右手を出して、左手で引き上げた。

 その時、一瞬彼らは身構えたが、皮手袋をしただけだとわかると、また元に戻った。

「済みませんで通れば、警察はいらねぇんだよ」

「じゃあ、警察に行きますか」

「なんだと、こりゃ」

「嘗めてますぜ、こいつ」

「おい、お前。お前が今、どういう状況になっているのかわかっているのか」

「分かってますよ。新宿にも渋谷にも行けない、道が塞がれていてね」

「わかってるじゃないか」

「で、どうしろと」

「だから、謝れって言ってるんだよ」と「はぁ」と言った男が言った。

「どう謝ればいいんですか」

「馬鹿か、お前」

「馬鹿呼ばわりされる覚えはないんですけれどね」

 僕ときくとききょうは、次第に路地の奥に追い詰められていった。

 路地の向こう側は、線路で、金網が張ってあった。また、路地の両側は居酒屋風の店で、まだ昼間の今頃はどこも扉が閉じられていた。

 僕らは袋地に入り込んでいた。

 相手は右側に八人、左側に七人いた。合計十五人だった。

「おい、口の利き方に注意するんだな」

「分かりましたよ」

「わかりゃいいんだよ。で、謝ってもらおうか」

「済みませんでした」

「おいおい、お前は何を聞いていたんだ。それで謝っているつもりか」

「謝っているつもりですが、違うんですか」

「やっぱり、こいつは馬鹿だぜ」

 周りの連中が笑った。

「そうだな。謝り方も知らねえ馬鹿だぜ」

「だから、どうすれば謝ったことになるんですか」

「言わなきゃ、わかんねぇのか」

「分かりません」

 僕がそう言うと、相手は呆れたような顔をした。

「本当に馬鹿だな、お前は」

「馬鹿で、済みません」

「金だよ、金」

 とうとう相手は、お金の話を持ち出してきた。

「お金が、謝ることとどう結びつくんですか」

「はぁ」

 また、そいつは「はぁ」と言った。

「とにかく、金を出せばいいんだよ」

「分からないなぁ。お金を出すことと謝ることとどういう関係性があるんですか」

「金を出すっていうことが、謝るっていうことになるんだよ」

「ああ、そういう意味だったんですね。で、いくら出せばいいんですか」

「さっきなら、数万で済んだが、今はこれだけ集まったんだぜ」

「何人ぐらいいます」

「馬鹿か、お前は。数えられないのか」

「怖くて、よく分からないんです」

「十五人だよ」

「十五人ですか。それで、いくら払えばいいんですか」

「少なくとも一人あたり、これくらいだな」とそいつは人差し指を一本立てた。

「千円ですか」

「馬鹿野郎。さっきなら、数万で済んだが、って言っただろう。一人一万に決まってるだろう」

 きくは僕のオーバーの腰あたりに手を置いていた。

 僕は財布を取り出した。そして中を見て、「五、六千円しかありません」と言った。

 すぐ近くの者が、財布を取ろうとしたので、僕はすぐにしまった。

「ふざけるなよ、この野郎」とそいつは言った。

 そいつは「キャッシュカードが見えました。キャッシュカードで引き下ろさせればいいんですよ」と言った。

「そうだな。五、六千円じゃ、しょうがないからな」

「そこの女の子を捕まえろ」

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 僕は撮った写真をクラウドストレージ(インターネット上にある保存場所)にアップロードした。携帯を奪われたり、壊されたときの保険だった。

 こちらの顔を見られているから、彼らがこのまま黙っているはずはないと思った。ただ、すぐには見つけられないだろうから、その間は安全なはずだ。

 とにかく父を襲った復讐と奪った小判の分ぐらいは痛い目を見せてやった。

 それと、黒金古物商と黒金高校の生徒がつるんでいることが分かった。

 宝永小判は一枚でも大金だ。高校生の扱える金額を超えている。黒金高校の生徒には、バックがついているのかも知れなかった。

 いずれにしても、戦いを始めてしまったのだから、これで終わるということはないはずだ。

 

 僕は路地を出ると、まだ金属棒を持っていることに気付いた。オーバーの下に隠して、どこか隠しておける場所を探した。線路の下のコンクリートの間にそれを倒してみた。土に重なって、ちょっと見には、金属棒とは分からなかった。

 ここなら争いになっても来やすいと思った。それからナックルダスターは戦利品としてもらっておくことにした。小判一枚との引き換えなら、安いものだろう。

 

 家に帰った。途中、つけてくる者がいないかは注意した。

 きくとききょうに会うと、今日の出来事が嘘のように思えてきた。

 父が帰宅したので、昨日のことをもう一度訊いた。

「じゃあ、書類のようなものに住所は書いてこなかったんだね」

「そりゃ、そうだ。売るなら別だが、売る気がなかったんだから、何も書いて来ないに決まっている。今は個人情報にうるさいから、そういう古物商にも名前や住所は残しては来たくはないじゃないか」

「そうか。それならいいんだ」

 僕はほっとした。父がうちの住所を残してきたらアウトだと思ったからだった。

 

 ききょうは哺乳瓶から赤ちゃん用のミルクを飲んでいた。

「こんな便利なものがあるんですね」ときくは驚いていた。

「国にいた頃には、乳が出ないときには貰い乳を飲ませる他はなかったですから」

「そうなのね」と母も格別、きくの言葉に驚いた風はなかった。感覚的に江戸時代から来たんだということが分かってきたようだった。

 風呂に僕ときくが一緒に入ることも、しょうがないと思っているようだった。

 きくには新しい着物が用意されていたが、「前のがいいなあ」と言うきくに「お母さん、前のきくの着物を出してよ」と言った。

「それ、いい物なのよ」と母は言ったが、きくの着物を出してきた。

 きくは自分の着物を着ると「やっぱり、この方が合う」と言った。

 しかし、現代で生活するなら着物では不便だからと、きくを説得して、次の土日に洋服を買いに行く約束をさせた。

 夜になると、きくが求めてきたので応じると大きな声を出すので、慌てて枕で口を押さえた。

「頼むよ、きく。ここでは大声は駄目」

「ここでは大声はダメです」ときくは反芻した。

 

 次の朝、母から「昨夜のあれは何」と言われた。

「ききょうが泣いたのであやしたんだよ」

「ききょうちゃんの泣き声には聞こえなかったけれど」

 僕は黙って、ご飯をかきこんだ。

 

 土曜日が来た。

 母ときくとききょうと僕の四人で新宿に行った。きくは母の古い服を無理矢理着せられていた。さすがに着物で新宿は歩けなかった。

 取りあえず全部揃えるということでデパートに行くことにした。

 まず下着を選んだ。次に服を選んだ。その間、僕は店の前で待っていた。

 段々、荷物が多くなってきた。

 一通り買い揃えると、タクシーで帰った。

 すると、家の前に富樫がいた。

「あら、富樫君、来てたの」

「はい、京介と遊ぼうと思って」

 その時、きくとききょうがタクシーから降りてきた。

 僕は買物袋で、きくとききょうを隠そうとしたが、無駄だった。

「おい、京介。その女の子と赤ちゃんは誰なんだよ」

「従妹と別の従妹の赤ちゃんだよ」

「そんな従妹、お前にいたっけ」

「いたんだよ」

「そうなんですか、おばさん」

 母は説明しづらそうに、「そう、そうね」とだけ言った。

「へぇー、こんな可愛い従妹がいるんだ。お前、スゲぇな。それにこの赤ちゃんも可愛いな」

「そうだろう」

「今日は買物に行ってきたんですか」

 見りゃ、分かるだろう、と言いたいところだが、言わなかった。

「そうなんだ」

「へぇー、何買ってきたの」

 富樫は家に上がる気満々だった。

「この子の洋服だよ」

「これから着てみるんですか」

「そうよ」と母が言った。

「俺、見てみたいな。見てもいいですか」

 こういうの、断れないだろう。

「ええ、いいわよ」と母が言った。そう言うしかなかった。

「お邪魔します」

 お邪魔だって……。

 

 結局、富樫は上がり込んで、買ってきた服をきくが着て見せた。

「すげぇ、似合ってる。可愛いよな」

 富樫は僕に同意を求めた。僕は頷くしかなかった。すると、きくは凄く嬉しそうな顔をした。それがまた富樫を喜ばせた。

「次のも着て見せて」

 結局、三着買ってきた服、全部を着て富樫に見せた。

 富樫は「すげぇー」としか言わなかった。

 

 富樫が帰った後、「こういう服を着ると男の人は喜ぶんですね」ときくが言った。

「みんなそういうわけじゃない。富樫だけが変人なんだ」

 富樫が帰った後で、僕はそう言った。

「でもこの服、足の下が見えるし、スースーして恥ずかしい」

 スカートだけを買ったからだな。明日、パンツ類も見に行こう、と思った。

「お母さん、明日は渋谷に行こうよ」と言った。

「ごめんなさい。明日は用があるのよ」

「分かった」

 

 きくは鏡の前で、何度も着替えて見ていた。

 僕が寝転んでいると、きくはショーツを穿いていないことが分かった。

「馬鹿、お前何やってるんだ」ときくにショーツを見せて怒った。

「これを穿くんだよ。それとストッキングも」

「えっー、知らなかった」

 母は教えていなかったんだろうか。

 とにかく、ショーツとストッキングを穿かせた。

「はばかりはどうするの」

 僕はきくをトイレまで連れて行って、ショーツとストッキングを膝のところまで下ろすことを教えた。

 そして、終わったら、上まで上げることも。

「今日はトイレ、いや、はばかりはどうしてたの」と訊いたら、「穿いてなかったもの」

と答えた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 寝る場所については、きくと母が鋭く対立した。

 母はリビングに布団を敷き、そこにきくとベビー籠に入ったききょうを寝かせると言ってきかなかった。きくは僕と同じ部屋に寝ると言い張った。

「こればかりは、お母上のお言葉でも受けられません。わたしは京介様と寝ます。これまでもそうしてきたし、これからもそうです」

「あなたね、そんな非常識なことができますか。いくら、子をもうけたって、この家では別に寝てもらいます」

「お母さん、それをきくに言っても無理だよ。きくは僕と寝るんだ。ずっとそうしてきたから」

「だってね、それじゃあ」

「世間体なんて関係ないよ。もう、ききょうがいるんだよ」

 他にも京太郎もいるけれど。

 とにかく、きくの頑固さに母は負けた。

 

 ともあれ、きくと僕は僕の狭い部屋で寝ることになった。

 僕はベッドで、きくは床に敷いた布団に寝るはずだった。しかし、きくはそれじゃあ一緒に寝た気がしないと言い出した。

 きくは僕のベッドに入り込もうとした。しかし、狭かった。

 床に敷いた布団に僕ときくとが寝てみた。ベッドより狭い感じだった。

 結局、きくを壁際に寝かせ、僕は転げ落ちないように床側に寝た。もちろん僕が転げ落ちても安全な場所にベビー籠は置いた。

 きくは僕にしがみつくように寝た。

 

 次の日、僕が制服を着ると、きくは珍しそうに見た。

「いつも、その格好で学校とかいうところに行くんですか」

「そうだよ」

「道場で剣道を習うのに似ていますね」

「そうだな」

「いってらっしゃいませ」

 玄関できくは正座をして手をつき、頭を下げた。

「ああ、行ってくる」

 その様子を見ていた母は呆然としていた。

「きくとききょうのこと頼んだよ」

「わかったわ」

 

 学校に着くと、担任から昼休みに校長室に来るように言われた。

「京介、久しぶり」とか「お前、大活躍だったな」とか、何人もの生徒に言われた。

 僕が乳母車を抱いたままトラックに衝突したことは、学校中に知れ渡っていた。

 こういう話題で注目されるのは、苦手だった。

 授業が嫌いな僕が、授業が始まってホッとしたのは、初めてだった。

 昼休みに校長室に行くと、「赤ちゃんを助けたことで、西新宿署署長名義で感謝状が出る。次の朝礼の時に渡すからそのつもりで」と言われた。朝礼は毎週月曜日に行われる。今日が火曜日だから、一週間後になる。憂鬱な一週間になりそうだった。

 

 放課後になると、僕はすぐに家に帰った。きくとききょうが心配だったからだ。

 玄関に入るやいなやきくが抱きついてきた。それを母が嫌な顔で見ていた。

「ききょうは」

「京介様のお部屋で眠っていますわ」

「そうか」

 僕は制服を脱いで、普段着に着替えた。

 それから財布と携帯を持って、オーバーを着た。

「どこかに行くんですか」

「ちょっと買物に行ってくる」と言いながら、巾着の中から小判を一枚取り出していた。

「わたしも行きます」

「その格好じゃ、無理だ。その内にここでも外に出られるように洋服を買おう」と言った。

「うれしい」ときくは、よくわからずに喜んだ。

 玄関を出る時、母が「京介、出かけるの」と訊いた。

「うん、ちょっと買物をしてくる」と言った。

「わかったわ。いってらっしゃい」

 

 僕は買物に行くつもりはなかった。

 小判を黒金古物商に持って行くためだった。

 新宿からはそう遠くはなかった。

 黒金駅で降りると、商店街を見て回った。

 黒金古物商は、駅からさほど遠くない所にあった。

 古いビルの二階だった。階段を上って、扉を開けた。待合室に入り、番号札を取った。上の方に番号の書いてあるランプが幾つもあった。僕の持っている番号のランプが点いた。僕はドアを開けて中に入った。いくつかのブースに分かれていて、ブースごとに番号がついていた。僕の持っていた札のブースに入り、番号札を中にいる人に渡した。

「何を売りたいんですか」と訊いた。中年の男性だった。

 僕は宝永小判を出した。

「ほう、小判ですか」

 男は小さな顕微鏡のようなもので、その小判の表と裏を見た。

「これは珍しい。未使用品ですな」

「で、いくらですか」

「これだと三百万円ってところですかね」

「今、お金に換えられますか」

「あなたは何歳ですか」

「十六歳です」

「だったら、親御さんを連れてきなさい。ゲームやCDなどの少額商品ならすぐ買い取ることはできるけれど、これは三百万円もするものなので、親の承諾が必要なんです」

「そうですか。分かりました。次に来る時には、連れてきます」

 そう言うと僕は小判を返してもらって、ポケットに入れた。それからブースを出た。

 階段を下って、通りに出た。壁に寄りかかっていた若者が僕の後ろをついてきた。

 もう少し行くと路地になる。

 後ろから「兄さん」と声をかけられた。振り向くと、パンチが顔に向かってきた。

 その拳を掴んで、僕は殴られたように倒れた。

 当然、殴ってきた若い男も倒れた。若い男の拳を捻って手を広げさせた。若い男はナックルダスターを嵌めていた。それを奪い取って、右手に嵌めた。若い男の腕をねじり上げて、路地に入った。そこには、四人ほど仲間がいた。

 僕は男の背中を蹴って、仲間の方にやった。

 蹴った男が向き直って、五人揃ったところで、僕は携帯で写真を撮った。

「この野郎、ふざけた真似しやがって」

 僕に蹴られた男が殴りかかってきた。しかし、ナックルダスターは僕が奪って、僕が嵌めていた。その拳でその男はしたたかに顔面を殴られた。ひょっとしたら鼻の骨が折れたかも知れなかった。顔を押さえて倒れ込んだ。

 周りで見ていた奴らも顔色を変えた。一人は金属バットを持っていた。それを振り上げて、襲って来た。僕はそれをかわして、その足を払った。その男は地面に腹ばいになった。

 もう一人は金属棒を持っていた。あと二人はナイフをちらつかせた。僕はその写真も撮った。金属棒を持った男が殴りかかってきた。僕は、その一撃を避けながら、彼から金属棒を奪い取った。

 そして、金属棒を刀を構えるように持った。

「五人で一斉にかかれば、金属棒なんて関係ないさ」と誰かが言った。

「ナイフで切ってもいいかな」

「構うもんか」

「向こうは金属棒を持っているから、正当防衛さ」

「そうさ」

 そう言うと五人が一斉に飛びかかってきた。

 最初に向かってきた者の手を思い切り叩いた。手の骨が砕けたことだろう。次にナイフで向かってきた一人の右腕を金属棒でへし折った。後ろに回った男が金属バットを打ち下ろしてきたから、それを避けて、胸を金属棒で打った。あばら骨が折れたか、ひびが入ったことだろう。ナイフを持っていたもう一人は、少しびびっていた。しかし、容赦なく僕はその右腕を金属棒で叩いた。やはり骨が折れただろう。

 ナックルダスターを持っていた奴は逃げだそうとしていたから、金属バットを投げて、その足に絡ませた。若いその男は転んだ。転んでいるその男の右足を金属棒で殴った。足の骨の折れる音がした。

 転がっている男たちの懐を探った。生徒手帳が出てきた。皆、黒金高校の生徒だった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 月曜日は朝、採血があり、すぐにレントゲンが行われた。

 午前中に女医の診断があり、健康そのものと太鼓判が押された。

 看護師から退院の手続きの話があるので、母に来てもらうように言われた。

 すぐに携帯から家に電話をした。向こうは結構大変なようだった。

 午後、きくとききょうを連れて、母が病院に来た。

「この子だけを置いていくのは心配だったから」と母は言った。

 その気持ちは良く分かった。

 退院の手続きと会計を済ませると、タクシーに乗って家に帰った。

 きくは振り袖を着ていたから、タクシーを降りる時には、どこかに参拝に行ってでも来たような感じだった。

 リビングでお茶を飲んだ。僕はコーヒーだった。

「この子の言っている話は信じられないんだけれど、お昼にね、お父さんが、この子の持ってきた小判を一枚、近くの古物商に見せたそうなのよ。それで、これ未使用品ですよね、と訊かれたそうなの。よくわからないと答えたそうよ。そうしたら、この小判なら二百万円ぐらいですかね、と言ったそうよ。別の古物商では三百万円と言われたって」

「そう、全部が未使用品じゃないけれど、半分以上は未使用品だからね。親父に連絡してくれないかな。その三百万円って言われた古物商で現金に引き換えてもらってくれって」

「そうするわね」

 母は携帯でかけた。

「どうしたの」

「携帯に出ないの」

「何か、急用なんじゃないの」

「そうなのかもね」

 その時、電話が鳴った。母が出た。

「お父さん、病院だって」

「どこの」

「黒金病院だって」

 黒金病院は黒金町にある、評判の良くない病院だった。

「そう」

「わたし、行ってくるわね」

「分かった」

 母はタクシーに乗って行った。

 

「きく、大丈夫か」

「ええ、ききょうを見ているだけだから楽だわ」

「退屈じゃないか」

「そうね。それより、京介様のお部屋はこんなに狭いんですか。わたし、どこに寝たらいいんでしょう」

「そうだよな。部屋を片付けよう」

 僕の部屋は、ベッドと勉強机とちょっとした本棚があるだけで、狭いけれど空間がないわけじゃなかった。そこら中に本やら服やらゴミが散らかっていて、座る隙間もないほどだった。

「そういうことはわたしがやります」

 きくはそう言うと片付けだした。さすがに服をどう片付けていいのかわからなかったので、教えた。教える方が面倒くさかったが、次に片付けさせるときのために覚えさせたのだ。本は本棚にしまうように教えた。残ったものはほとんどがゴミだが、必要なものがあるかも知れないので、段ボールの箱の中に入れておくように言った。

 後は掃除機のかけ方を教えた。コードを引き出し、それをコンセントに繋げて、スイッチを入れて、吸い取る音がしたら、部屋を隈無く掃除するように言った。スイッチの切り方とコードのしまい方も教えた。コードはボタンを押せば自動的に巻き取られるようになっていた。

 その時、携帯が鳴った。

 出ると母だった。

「お父さんが大変なの。顔を殴られて、鼻血を出しているわ。それから、小判だけれど、若い奴らに取られてしまったわよ。今、警察の人から事情聴取を受けている」

「きくとききょうのことは言わないでよ」

「わかっているわ」

 

「どうしたの」ときくが訊いた。

「親父が、強盗にあったらしいんだ」

「何か盗まれたの」

「ああ」

「何」

「小判だって」

「小判」

「そう」

「お父上は大丈夫なのですか」

「鼻血は出しているようだけれど、大したことはないようだ」

 

 親父は母と病院から帰ってきた。

 顔を殴られたところに絆創膏の大きい物が貼られていた。

「すまん」

「いいんだよ」

「いきなり、数人に囲まれて路地に連れ込まれて、小判を取っていかれた。古物商を出た所からつけられていたようだな」

「警察には何て言ったの」

「家宝の宝永小判を鑑定してもらおうと思って、営業の途中で黒金古物商に持って行ったら、いい鑑定結果が出たので今日はいい酒でも飲もうかと思っていたら、この有様だと話した」

「どんな奴らだった」

「顔を見る余裕はなかった。歩いているところを、いきなり殴られて、路地に引きずり込まれた。そして、地面に押さえつけられて、服や鞄をあさられ、小判を見つけると引き上げていった。五、六人だったけれど、顔は見てはいない。だけど、若い連中だった。救急車とパトカーが来て、一応頭と顔のレントゲンを撮って、骨折していないことを確認すると、事情聴取が行われた。話したことは、今まで言ってきたことと同じだ。外傷が軽度だったので、病院からはすぐ帰っていいと言われたが、会社に連絡して、そのまま帰宅することにした」

 父は泥まみれだった。

 服を脱いで、風呂に入った。

「こちらにも盗賊がいるんですね」

 きくがそう言った。

「そうなんだよな」

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 二階のダイニングに上がると、母と父は怒っていた。

「病院から電話がかかってきたわよ」

 母が険しい声で言った。

「すぐ戻るように、って」

「分かっている。それより、ききょうはどうしている」

「今は眠っているわ」

「あの子はどうしたんだ」と父が訊いた。

「信じられないかも知れないけれど、僕の子だ」

「そんな馬鹿な」

「間違いなくわたしと京介様の子です」ときくが言った。きくは、椅子に座り慣れていないので、椅子の上で正座をしていた。

「そんなはずがないだろう」

「信じられないと思うけれど、最初に意識を失った時に、過去に行ったんだ。江戸時代の何とか藩に行ったんだよ」

「白鶴藩です」ときくが言った。

 そこで、家老の奥方を助けた縁で、家老屋敷に住むことになり、きくと出会ったことを話した。

「言っとくがな、そんな話は誰も信じないぞ」と父は言った。

「分かってるよ」

「お前の話を仮に信じたとしても、その時、お前は病院にいたのだぞ。意識不明の重体だったんだ。そして意識を取り戻した。お前の話は、その意識のなかった時の夢物語に過ぎない。そうだろう」

 父はそう言った。常識的に考えればそうだ。僕自身、何度もこれは夢だからと思ったくらいだったんだから。

「その子はどこから連れてきたんだ」

「だから、白鶴藩の家老屋敷からだ、って」

「そんな話が通るとでも思っているのか」

「そうなんだからしょうがないじゃないか」

 父はきくを見た。

「この少女は一体何歳なんだ」

「十六歳です」ときくは言った。

 僕が最初に会った時は、数え年で十五歳だったが、次に会った時は一歳増えていたのだ。

「十六歳だって。だったら、お前と同じ歳じゃないか」

 下手に数え年を持ち出すとややこしくなるので、「そういうことになるのかな」と僕は言った。

「お前好みの美少女だな」

「変な言い方、止めてくれない」

「京介様、こちらの方は京介様のお父上とお母上でございますか」

「そうだけど」

「知らぬ事とは申せ、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。わたしはきくといい、家老島田様の屋敷で働く女中です。縁あって、京介様のお世話係をしています。さきほど、お父上がおっしゃった、お前好みの美少女とは、わたしが京介様の好みに合っているという意味でしょうか」

「そう。そういう意味です」と父が言った。

「へんな言い方は止めてくれ。この子が誤解するだろう」

「そうだったら、とても嬉しゅうございます」

「ほらぁ」

「それにしても妙な言葉遣いをする子だなぁ」

「だから、江戸時代から来た子なんだってば」

「そんな話は通用しない。この子の親元さんに返さなくちゃならない」

「どうするんだよ」

「警察に連絡するしかないだろう」

「警察はやめてくれ。それじゃあ、この子と赤ん坊が帰れなくなる」

「他にどうするんだ」

「とにかく、警察に連絡するのは止めてくれ。そして、この子の話を聞いてやってくれ。もし、警察にこの子が保護されるようだったら、僕はお父さんとお母さんと縁を切って、この子とその赤ん坊を警察から取り戻す。そして、一緒に暮らす。その時は、この世界にはもう戻っては来ない」

 僕の真剣な目を父は見た。

「わかった。警察には連絡しない。約束する。そして、この子の話を聞く。それでいいだろう」

「ああ」

 

 僕は財布と携帯と携帯の充電器を持って、病院に戻った。

 女医からも看護師からも、こっぴどく叱られた。

「もう一度、こんなことをしたら当病院には置いておけませんからね」

 僕は、病院着に着替えて、ベッドに入った。

 気になって、一時間ごとに電話していた。

「今、ききょうのおむつとか哺乳瓶とか粉ミルクを買っているところ。ベビー籠は届けてもらうことにしたわ」

 また、電話をするとききょうは寝ていると伝えてきた。

 きくの話は全く理解できないと父も母も言っていたが、きくが自分が来た時に持ってきた巾着を開けて、中から、三〇両と二千七百四十銭のお金が出てきた時には、さすがに驚いたようだった。

 

 土曜日の夜は長かった。

 午前一時ぐらいまでは電話に出てくれたが、午前二時になった時には、さすがに「寝なさい」と母から言われた。

 

 日曜日は午前七時に起きた。検温と血圧を計りに看護師が来た。

 午前八時に朝食が出た。

 思えば、昨日から何も食べていなかった。騒動の渦中で何も食べる機会がなかったのだ。

 久しぶりに食べる朝食はうまかった。

 おかわりができるならしたいくらいだった。

 午前十時に点滴がなくなると、針が抜かれた。

 午前十一時頃に携帯が鳴った。

「よぉ、元気か」

 富樫だった。

「昨日、意識を取り戻したんだってな、お袋さんに聞いたぜ。後で会いに行くからな。じゃあな」

 

 昼食もうまかった。江戸時代の食事と比べると何でも美味しかった。

 昼食後に富樫が来た。

「元気そうじゃねえか」

「元気に決まっているだろう」

「でも、凄かったよな。乳母車を抱いたまま、トラックに衝突したんだものな。死んだと思ったぜ。全く悪運の強い奴だな」

 その時、乳母車を引いていた女性が赤ちゃんを抱いて面会に来た。富樫は部屋の隅に立っていた。

「その節はありがとうございました。昨日、意識が戻られたと病院から連絡がありましたので、来てみましたらいらっしゃらなくて、今日、ご挨拶に伺いました。これ、つまらないものですけれど、お受け取りください」と言って、洋菓子らしい包みのものを僕に渡した。

 僕は赤ちゃんを見て、「無事で良かったですね」と言った。

「あなたのおかげです。本当にありがとうございました」

「いや、それはもう」

  乳母車を引いていた女性が帰って行くとホッとした。こういうのは、僕は苦手なのだ。

「富樫」

「…………」

「いつまで、固まっているフリをしてるんだよ」

 富樫もこういうのは苦手なのだろう。

「あっ、苦手だってのはわかった」

「分かるに決まっているだろう」

 すると富樫は、勝手に洋菓子の包みを開いた。

「クッキーだ。俺、大好き」

「そうか、食べてもいいぞ」

 そういう前に口に入れていた。

「食べてまーす」

「全く調子のいい奴だな」